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項目 内容
ID J2300336
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔長野県史刊行会収集文書〕
本文
[未校訂](等々力哲男家文書)○長野県穂高町等々力
嘉永七甲寅年十一月四日朝早四ツ時大地震ゆり当村抔格別の
大痛みは無御座候得共松本は大ゆりにて新小路一ツ橋浦小路
中町焼失中程西側家数五十五六軒余焼失土蔵抔も所々大痛に御座
候御城内所々痛み申候柳町御医者桂宅様(ママ)不残ゆりつふし申候
つぶれ家伊勢町生安寺小路其外所々にて七拾軒余もつふれ家
御座候其外不潰にても皆かしぎ申候松代御城下上田御城下諏
訪御城下甲府其外処々大ゆりの噺しに御座候其後十一月九日
松本博労町両側にて五十五六軒焼失いたし候是は地震にては
無之候
(横内家文書)
大地震の控書
惟時(ママ)嘉永七年甲寅十一月四日四ツ時大地震あり南の方より震
り来り我か居宅南の平地へかしがりて平になる我表の庭に居
て西へ向ひて両足を踏み張り居れ共震り倒さるゝ位なり宅内
よりは黒煙立ち登り今や顚倒するにやと思ひ又くね木の枝か
しがりて地に付雪泥の庇下なる坪の水震て上りて庭へ流れ出
るやら勝手元の用水台所へ附流れるやら大変なり暫く過きて
又震りかへしにて家も元の通りになりたり氏神様へ参詣して
見れば石燈籠も倒れたり村中皆集りてアキレて居る内に古見
の方の山鳴り渡り雷鳴の如し懸る処に松本の方当り黒煙立登
りしに不残飛出しに中北町北側新小路の南より入口東側七と
云ふ家より出火して北へ燃へ抜き又中町へ焼出し両側四口と
なり弥大火となり巳ノ下刻より出火して午の刻に至り大風吹
発り所々吹懸け火煙天を灼すが如く身の毛も弥立有様なり松
本領諏訪領の百姓馳集り消防せし故未の刻に至り鎮火せり中
町西の焼止りは飯田町口より東へ拾間程にて北側小指物屋藤
兵衛宅にて止まる南側樽屋利八宅にて止まる東の方は南側升
屋与三兵衛宅にて止まる北側は神明小路にて止まる一ツ橋両
側皆焼け宮村町へ少し小池町へ少し焼込む惣人数夜に入り引
取る殿様より消防人足中へ念来寺に於て粥を下たさる町家焼
失の家壱軒に付白米四斗金弐分炭三俵宛被下候地震にて家潰
れ候者へは御救焼失人の半減なり伊勢町浄林寺東角より棟数
五軒同町東入口にて五六軒本町一丁目にて三四軒二丁目にて
五六軒生安寺小路西より入口両側皆倒れる三丁目堤屋南鍋屋
小路飯田町南角東角小池町北角側□る五丁目も三四軒博労町
鍛冶小路両側皆倒れ其外土蔵の庇付たるは其数何程ともしれ
ず凡本町世祢屋の蔵拾弐飯田町□□屋の蔵皆損す伊セ町和泉
屋の納屋潰れる其外見聞する処記するに遑あらず御城御本丸
北の石垣二十間余崩れ土手小路□中の隅櫓塀損しる御家中の
居宅塀土蔵大破なり大坂の海岸にて大船破船せし由風聞あり
附大名町西郷八郎左衛門様蔵かしがりて戸あかず餅搗杵を
以て戸を打砕かんと力ら任せに打ども砕けず終に鋸りに
て曳切りて品物を入れる旦那は火の番にて火事場へ御出
張被成御留守は御婦人奥方并下女計り也我等は土草鞋に
て御居方御部屋迄踏込働くなり
横内勘兵衛朋贇
三十二才
出典 新収日本地震史料 補遺 別巻
ページ 428
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
市区町村 長野【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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