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項目 内容
ID J2300238
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1792/05/21
和暦 寛政四年四月一日
綱文 寛政四年四月一日(一七九二・五・二一)〔島原・肥後〕
書名 〔地震史料〕
本文
[未校訂](永代家事記)
○同年肥前国高来郡温泉岳の内普賢山、正月十八日より煙吹
出し追々焼立(噴火)て大地震強し。三月十八日より焼け至って強
くなり、四月朔日暮六ツ時、前山と申し二里ほどの山、二
つに割崩れ海中に押出し、海上津波打上げ、城下数十ケ村
打崩し死人国人一万四千余、掛り舟(碇泊船)数百隻埋れ、死人幾千
と云う事分らず。その上向う地肥後国三十ケ村余大浪打上
げ死人五千余と云う。
(年代記)○福岡県宗像
○同年三月一日 夜五ツ、(午後八時)四ツ両度(午後十時)地震、二月より日々地震、
月中相止まず候事
四月朔日暮六ツ時、島原御城下町数三十町、軒数四千軒山
崩れ海へ落入り、汐わぎ上り候故也。旅舟何百隻とも知れ
ず破損、右人家ともに一人も助からず、凡そ溺死の積り二
万六千人程と相聞ゆ。当郡勝浦浜山鹿屋舟二隻、同所へ居
り申し破舟、九人乗りにて十八人の内二人脇方へ参り居り
申し命助かる。殿様にも御城鳴動に付、御舟召し御行方知
れ給わずと存じ候。この段隠密、その後も段々焼明れ(ママ)候
由。希代の珍事驚くべし
(加瀬記録)○福岡
○同年 肥前国島原雲仙岳焼け山崩れ大変、右に付春夏日々
地震仕り候
(記録)○福岡県柳川荒木屋文書
○同年三月一日より島原山焼けに付、大地震一日に百二十度
も致し、同四月一日夜大波打ち、凡そ五万人の水死、地震
は九州中ばかりと聞く。
(記録書抜)○秋月遠藤文書
○同年肥前島原大地震に付、夫より凶作と相なり地震の次第
書いたし置く也。同年三月一日より地震はじまり昼夜に軽
く重くにかけ凡そ二、三十度位。五月初め頃迄昼夜止まず。
此地震おこりたりしは、島原御領普賢山焼出し、大石・小
石きびしく吹上げ震動より地震となるよし風説これあり。
隣国は申すに及ばず上方迄も地震同様なる由。四月一日同
所前山吹破り沖中へ突込み津波となり、城下ならびに在
々、肥後天草にかけて家損数知れず、死人三ケ国にて三万
八千人、旅人数知れず、地船・旅船これ又破損数知れず。
島原殿様えは、三里脇の庄屋宅へ御立除きにて御入り遊ば
され候由。御家中は、おもいおもいに立退き、もっとも御家
中は御別条これなき由。古今の珍らしきことこれあり候。
秋月より御使者吉村五郎右衛門様、御進物蠟燭千挺の由
(柳川藩史年表)
○同年四月一日 島原温泉岳崩壊し海嘯起り領内被害多し
(年暦算)
○同年四月下旬頃、島原雲仙山焼崩れ大騒動、死人万人に及
ぷ、牛馬数知れず恐ろしき事也
(王丸文書 慎翁随筆 一九)
○肥前国高来郡島原領温泉山東北に当り大なる岩ばかり有
り、ここを普賢山と号す。則ち普賢菩薩の御堂これあり。
時に寛政三亥年十一月下旬より朝に凡そ十七・八反ほどの
帆かけ船数隻、嶺ばかりの雲に交り走り行く、領中の人是
れを見て奇異の思いをなし□とするといへども分りがた
し。夫より当正月七日夜、凡そ六・七尺程、火玉二つ飛び、
同十八日夜四ツ時(午後十時)普賢山麓より六里余も山中に火柱二時(四時間)ば
かり見る。人汗を流す。ややあって天地鳴出す。雷の音数
を知らず、ほどなく大地震、又は砂石のふる事大雷の如
し。その夜少し静まるに付、明方になり山中のようすを見
るに霞に包み見えず。六ツ時(午前六時)より大地震、砂石ふる事車軸
を流す、雷の音は山も崩るるが如し。しかる処、肥後より
御見分として川尻といふ所に早船五隻余、多くの川舟添い
九ようの御紋の幕打廻し道具美々しく飾りて細川蔵人・土
井求馬右両人頭分として大勢引ぐし、松島という所より島
原城下に着船あり、城内より番頭土井兵蔵・津山斧五郎両
人御出向い、御相対御挨拶あり、翌日四ツ時(午前十時)にかけ御見分
相済み、同月江戸注進のため谷川甚五郎・村山喜右衛門
大早御出立(大早飛脚)、然るに同二月一日夜戌ノ刻(午後八時)より亥ノ刻(午後十時)迄、山
中より火もえ出る事おびただしく、同三日夜丑ノ刻(午前二時)大地
震、なる音山も崩るるが如し。同六日午刻(正午)、麓より三里余
山中に十八ケ所炎吹出す。機幅五丁ほど長さ二十丁程也。
それに付、翌七日大早鈴木伝五郎御出立、その後大地震、
動する事今に止まず、山中より黒白の煙絶ゆる事なし。前
代未聞の事ども也
右は、彼の地より至来(通知)これあり
子ノ三月

注、「新収」第四巻二四二頁下左五行以下と同文のも
の一件省略

(大庄屋書状写)
四月四日 丑ノ亥(午前二時)見る
昨夕八ツ時(午前二時)過島原飛脚相見え、軽尻馬二疋即刻指出し候よう
仰せつけられ候間直に申しつけ候内いかようの御用にてさよ
う御急ぎ成られ候と御尋ね申し候処、当月朔日夕六ツ時過ぎ
大震致し誠に家宅も崩れ候程にこれあり、ほどなく海鳴出し
又々大地震仕り、高さ二丈程の津浪にて、町家残らず打崩し
家宅は申に及ばず人間一人も助かり申さず候。家も人も行方
なしに相成申す由に御座候。もっとも地所高き所に小家六十
軒ばかり残り申すと相聞え候。大木一丈五尺程の上に家流れ
かかり居り候もこれあり、又は人掛り息未だこれ有る者二、
三人も 二日の朝迄これあり候間、御詮義これ有り候処、手
を打切り足も切れ居り申候ようと申すようすにて、中々命助
かり候ようすにてはこれなき由に御座候、町家これ有たる跡
には、一町程の小山でき候との咄し候ても、諸人誠とは知ら
れ申すまじきとの噂にこれあり候、御城は地所高き御家中家
宅などは損じ申さざる趣に御座候。町家に用事これあり御出
浮の御家中衆は残らず行方相知れ申さざる由に御座候。今日
九ツ過ぎ頃、肥後よりの御飛脚御登りこれあり候。同国も十
ケ村程打崩レ申す注進の飛脚の由に御座候。大村・肥前内に
も定めて損所これあり申すべきとの事に御座候。島原よりの
飛脚は、同所より江戸迄九日割にてまかり越候と御咄なられ
候。肥後よりの御飛脚は咄し申す間合も時移る旨御咄にて急
ぎこれあり、その上此の節のようすは、咄候段の事にこれな
く、まず拙者どもは十ケ村ほど打崩レ候ようすばかりの注進
に、早打にて登り申し候。死人など有無は、跡より追々注進
これあるべき由申す。早々打立これあり候間、あらあら書分
け召置き候に付、御目にかけ候 以上
四日四日
右は大庄屋所々つかわし候書付の写し也
宗像郡勝浦村大庄屋半五郎内状の内

注、「新収」第四巻別巻二五七頁上三行以下と同文。省

出典 新収日本地震史料 補遺 別巻
ページ 226
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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