[未校訂]高橋史朗氏の教示によると、南国市日章(旧三島村)にも命
山があったという。そこで、明治初期の久枝村々誌をひもと
いてみると、「室岡山 或ハ宝山ト呼ヒ又命山ト云フ(中略)
宝永四年丁亥十月四日地震海溢ノ際土人避ケテ此ニ登リ生命
ヲ全フスル事ヲ得タリ爾来宝山命山ノ称起ル(中略)文北十(ママ)
二年癸亥七月八日ノ水災嘉永七年此山微ツセハ海溢水災等ノ
難避クルニ地ナク免ルゝニ所ナク本村ノ人民ハ他ニ移徒セサ
ルヲ得ス室岡ヲ称シテ宝山命山ト呼フ」と述べているのでわ
かる。なお、物部川の対岸では上岡山のふもと近くまで、安
政地震の時の津浪が来たので上岡神社内に記念碑を建ててい
る。幡多郡大方町入野の加茂神社内にある安政津浪の碑でも
「気埃濛々として暗西東人倶に後先を争ふて山頂に登」ると
述べており、各地に地元の人々が避難する命山みたいな場所
があったのである。それに、同町伊田にある安政地震の碑文
の一部には一里以上沖に船を出したら安全であるとも記述さ
れている。
最近、土佐清水市三崎公民館が刊行した浜平清市著『郷土の
できごと』によると、「津浪を記念した石碑が、三崎には二
箇所に立っています。ひとつは、その時流失したという十字
橋のたもとに立てられていたもので、現在平野医院の西側に
再建されています。いまひとつは十字路を北へ入って、山本
一美さん宅の門の脇にあるものです」と、三崎にある記念碑
を紹介している。『下川口村誌』(昭和十年刊)によると、「亥
の大変の紀念碑春日神社鳥居の南一間の処にありしが往年大
波の為砂礫の下に埋没すと云ふ、(中略)碑は自然石に素人
細工に文字を彫り付けてあると言う、思うに当時は奇人田中
甫人の棲住せし頃なるを以て同人の建立せし者ならん」とあ
り、宝永大地震の時の碑が土佐清水市下川口にあったと述べ
ている。『幡南探古録』によると「宝永より享保の交に亘り
て田中甫仲なる者浦分に住居し医を業とせり、何の為にか知
る由なきが、彼れは手づから石に六字の名号を刻して各所に
建つ、此の石宝永四年の海嘯の為地中に埋没し、後多くの年
所を経て後人偶然に発掘す、今、浦分にほろち様と称して祭
祀する者即ち之なり」とあり、ここでは田中甫仲が宝永地震
以前に建設したもので、それが宝永地震により埋没してしま
ったとしている。いまの所は下川口にあったとする地震の碑
については、はっきりしていないので今後の検討課題であ
る。