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項目 内容
ID J2300156
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔井村家文書〕○三重県志摩郡阿児町国府羽島徳太郎氏収集文書
本文
[未校訂]一宝永亥年十月四日九ツ時、大地震致し、塩之[干事厳敷|ひくこときびしく]、油
瀬も陸之ことし、井戸は水なき様ニ相成リ地よりすす水の
様成水出候、是則津波なり、上は字井合(地名)より御茶子(地名)の畑を
波越し、字野田(地名)へ一面、下はガンナ橋より字瀬田橋デ両方
の波打合、潰家、文蔵・清蔵・五郎助より惣七軒、波ニ打
潰、文蔵前は渕になり、家ハ野田へ流レ、瀬田庄左衛門西
有之候、藤左衛門の馬ハ岩田橋までヲヨギ山の手ニ付又小
いちと申女ハ桶を持、波ニ打れ、漸くの事ニ西の森ニ上
り、夕方飯米等取に村へ参り申候様ニ村中山ニ申[触|ふれ]候得
共、誰も先達而村へ帰えるものなし、儀右衛門子息の儀八
郎、達者成ものにて、殊に家ハ瀬田橋近所ニ候得ハ、家に
帰り見れハ、家の床より壱尺五六寸潮入、屋敷ハ魚いろい
ろ、すす水の色の塩也、五日め屋敷ニ而鯛諸魚料理して食
ス、表裏共、田畑及新田大波、死人ハ壱人中村弥平のミ、
痛メ候人数多し(大庄屋儀右衛門也)
御城主主(ママ)ハ松平源十郎様也、御知行七万石余也、御慈悲深
き御憐愍之上田畑御年貢並、小物成共御用捨被遊被下候、
村中一統、難有奉存事候、各村破損等を御順検ニ大代官、
小堀作左衛門様、御見合御出被成候而、国府村浜ニ而沖を
見れば冨士山ニ当り火の玉多く飛上り、相見候処、冨士山
の麓ニ小冨士出来、是を宝永山と号く
岡源五右衛門印
小堀作左衛門印
伴丹左衛門印
当亥の年より
卯ノ年迄五ケ年
瀬入・損毛用捨候
出典 新収日本地震史料 補遺 別巻
ページ 182
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 三重
市区町村 阿児【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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