[未校訂]文政十一子年十一月十二日朝五ツ時頃乾のかたより大なゐふ
りて我里も五百余軒の人家は潰又は破壊してひとつとして常
なるはなし其内つふれたる家より火いてゝ風したなるかたへ
燃ゆけと皆おのれ〳〵か身を守りて其火を防くもの独りもな
きを幸ひに郷中の締役にとてまハらせられし坂上某の前日此
地にとゝまらせ給ひぬれハはやくかけつけて其防をさせ給ひ
ケれと風いとはけしケれはかさしたなるは人力にて防くへき
術もなくしたいに火ひろかり風にしたかふのミならす家居は
かりかちりのこものこさす焼失ぬるほとのいきほひさも見ゆ
るをかの坂の上のぬし西へはしり東へはしりて人をまねきつ
ひに火をはしつめ給へりしはかのぬし新(ママ)大なる功といふへし
されと火にやかれ梁なとに押されて死せるもの又五十余人に
及べりおそろしとあることの中に人の命にかゝハるほとおそ
ろしきことはあるべからずなり
(中略)
○十八日板垣□し廻村十九日逗留廿五日また来らせ給ふ明る
日は坂井へ移らせらる
○丑正月廿一日地震しハらくのうち也
○同十二日暮六ツ時又地震前夜の動キよりも軽く程もみちか
し酉下刻また一度戌中刻又一度都合三ケ度
○十六日酉上刻地震物につきあたる如キの動きニて程もなし
大地震以後の筆記何れへ紛るゝやか尋