[未校訂]十三 大島の噴火と津浪
熊石は漁業を通じての定着者が増加し、開発が進められてい
たとき、全村の半ばを失うような大事件が起きた。それは松
前沖の大島の噴火と、それに併う津浪であった。
寛保元(一七四一・二二七年前)年七月十六日大島が噴火鳴
動し、降灰数寸に達し、昼なお暗い状態で十七、十八日と激
しさを増した。村民は神明社(根崎神社)に集まり祈禱をし
て貰ったりして平穏を祈っていたが、十九日の暁方潮が引
き、朝五時頃津浪がどっと押寄せた。松前から熊石まで三十
里間(一二〇㎞)の村々は、この津浪に洗われ、溺死する人
千四百六十七人、家屋の流失七百九十戸、破船流船千五百二
十一艘の多くに達した。この当時の和人地の数からすれば住
民の約二割が死亡したことになるが、熊石の人口は定かでな
いので比較することは出来ないが、寛保元年の相沼無量寺の
過去帳によれば、その年の死亡者百二十二人中、津浪による
溺死者は実に百十八人に達しており、法蔵寺の記録でも三百
余人が死亡したことが書かれていて、村に壊滅的打撃を与え
たと思われるが、これによって村は廃絶したのではなく、被
害人員は恐らく住民の三分の一位であったものと考えられ、
その後村民は災害の復旧にたゆみない努力を傾けた。
ちなみに法蔵寺に元禄四年銘の半鐘があり、津浪で法蔵寺も
流失したが、この半鐘は町から遠い八ツ岳の麓で発見された
といわれている。