[未校訂](江戸時代の上越後の三大地震 ⑦) 渡辺慶一筆
三番目の大地震は、弘化四年の善光寺地震です。震源地は
その名のとおり長野を中心とする北信地方で、善光寺では本
堂と山門だけを残して他の寺院僧坊が皆つぶれ、ちょうど御
開帳の最中だったため、全国から集まった善男善女が数千人
も圧死したことで知られています。
この地震は三月二十四日午後十時ころの大震と、二十九日
正午の大震と二回ありましたが、その間いつも余震が続い
て、人々は仮小屋に寝泊まりしたり、竹籔へ逃げ込んだりし
ていたといいます。しかし震源地が遠かったので、宝暦の大
地震ほどの被害はありませんでした。『頸城郡誌稿』には高
田藩領内に
町在潰家 四七七軒
同大破 一、五四一軒
死者 五人 けが 二八人
侍屋敷大破 七九軒
切米取長屋大破 一八軒
足軽長屋大破 二八軒
土蔵潰 一九軒
土蔵大破 二四一棟
とあります。しかし川浦代官所の天領の被害がなお大きく、
東頸城地方はひどかったようですが、史料がないので、上越
地方全般の被害を知ることはできません。
直江津の地震記録では、二十四日の地震には潰家がなく、
破損家十五軒だけでしたが、二十九日の地震には、
皆潰家 五八軒
皆潰土蔵 二棟
半潰家 四八軒
半潰土蔵 三棟
御城米蔵皆潰 一棟
御(郷カ)蔵米蔵皆潰 二棟
三月晦日直江津で地震退散のため祈禱し、金百疋を八坂神
社へ奉納しました。五月二十二日になって高田藩から救済と
して、皆潰に米二斗、半潰に米一斗を下附。また藩庫から六
百三十俵の米を出し、皆潰に一俵、半潰に半俵と金壱分弐朱
銀壱分づつ、三カ年賦で貸し出しました。
この地震の日の夜中に新川端町から出火し、類焼九百六十
軒、寺三カ寺、土蔵三十六棟、御城米焼失一万二千俵という
大火に見舞われました。直江津では地震がもって来たという
意味で「地震火事」といいました。
天領の被害がひどかったので、川浦代官小笠原信助は五月
中に自領の富豪十七人から九百七十両、兼任の水原代官所領
内の金持九名から八百三十五両、合計千八百五両を義[損|えん]金と
して集め、全村百二十二カ村と松山郷各村へ無利息で貸し付
けました。さすがに小笠原信助は名代官でした。 (おわり)