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項目 内容
ID J2100222
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔柿崎町史〕S13・1・10中頸城郡柿崎町史編纂会
本文
[未校訂]弘化四丁未年皇紀二五〇七昭和十一年ヨリ八九年前三月二十四日夜亥の刻
(午後十時)地震起る、之を善光寺大地震と云ふ。信州長野地方が
震源地で、時恰も現今の五月八日に当り善光寺に開帳があつ
て諸国よりの参詣人群集し居りし為め、坊中竝に町家の倒潰
夥しく加ふるに市中所々に出火があつたので、其死者実に一
万二千人傷者三万四千人に及んだ。飯山松代丹波島方面の被
害も大なるものであつた。高田城下では城郭の諸所大破道路
各所裂割し、家中の侍屋敷、足軽長屋、米倉、其他大破百三
十余ケ所、領内潰家町在を合して四百九十九軒、死者高田、
今町を合して三百五十人在方は其数不詳、其他関川御関所破
損、高札場三十一ケ所破損、今町仮陣屋米倉大破、郷蔵潰五
ケ所、寺院潰三ケ所往還橋破損三ケ所苗代[泥冠|ドロカムリ]四百二十四ケ
村、其他山抜崩、用水溜崩、田畑川欠、用水筋破損、等も諸
所にあつた。当時柿崎宿並に附近村落の被害の程度被難の状
況は庄屋嘉左衛門(滝沢)文書によれば、
地震にて種子並に土蔵等痛候届書
柿崎村
一種子蒔下し凡籾五十五石 但村中
内 籾二十三石両度之地震にて泥冠り浮苗にて相損
じ、用立不申候分籾二十二石程用立候分
一破損土蔵 壱ケ所 寿作
一右同断 忠作
一右同断 与五右衛門

右は去月二十四日夜、同二十九日両度之地震に付村方之内
取調候処書面之通に御座候依て以書付御届奉申上候 以上
弘化四未年四月 岩野組柿崎村
庄屋 嘉左衛門
平右衛門
孫治郎
組頭 弥五右衛門
四右衛門
久右衛門
初右衛門
友四郎
百姓代 文治郎
啓治郎
友吉
伊兵衛
利助
大肝煎所
(同文書)
弘化四丁未年三月二十四日夜五ツ半(午後九時)時頃大地震
之事
一弘化四丁未年三月二十四日夜五ツ半時頃大地震にて皆々驚
き家を逃出候処至て長き地震にて有之其後度々少々ヅゝゆ
り九ツ過頃又余程之地震ゆり候得共当所にては潰家一軒も
無之尤寺方にて墓所並に燈籠等は所々転申候其外水戸町之
右手上の川端、新田町之裏通川向ひ等は大きに地面割れ青
ねば赤ねばを吹き出しそれより毎日少々づゝゆり申候処同
二十九日昼九ツ時(正午)頃又々大地震也是は二十四日之分
よりは短く候得共余程強く御座候、此時は当所にて戸障子
之痛所々に有之新らしき土蔵等は壁割或は座敷之張付少々
づゝ痛候所も有之、二十四日よりは村中にて誰も寝候もの
も無御座、大きに畏れ居裏又は浜等へ小屋を掛け住居仕候
者も多分有之二十九日之地震にて大きに心痛仕今度は不残
小屋掛に相成諸道具を持込昼夜小屋に住居致申候(註、古
老に聞くに直海浜、三ツ屋、上下浜等皆海岸に小屋をなす
在郷は畑中又は広場等に小屋掛せりと)同日暮六ツ(午後
六時)過ぎ頃、余程之地震有之間々には少々づゝ一日に五
六度又ハ七八度づゝゆり申候然処四月 (欠字)日昼四ツ時(午
前十時)より大風吹出し村役人並ニ□共等火の用心厳敷
相廻り候処夜五ツ時頃(午後八時)雨に成、漸く風静かに
相成申候、同十日朝大あらし風吹出昼九ツ時(正午)頃に
は俄に大下り風と相替り誠に大風にて家鳴震動いたし人々
表へ出で只忙(ママ)然として世上之有様如何ならんと畏れ居候処
同八ツ時(午後三時)よりそろ〳〵静に成り夕方には雨降
り出し夜に入て風止み翌十一日には西風吹出し是は強くも
無之十二日より天気に相成二十四日迄打続き申候、其内に
も少々づゝ地震有之候、同二十九日夕方より風に相成夜中
頃には(北風)大下出しと相成候処今町にて出火有之町中家数九百
六十余軒も土蔵七十余も焼ける是は地震にて壁落候故也尤
寄町・横町・砂山丁西の方等凡三百軒程残り申候
一川井村・行法村等は大方土蔵壁落はだか蔵と成候事其外近
在にては多分の事は無之高田・今町・上ノ郷にては皆潰半
潰死人等余程有之候よし大瀁筋にては潰家も有之候得共多
分之義には無之由
一信州善光寺・飯山・稲荷山右三ケ所之義は誠に古今未曾有
の大地震也殊に善光寺にては折節御開帳にて諸国より参詣
多分入込候故死人怪我人幾千人といふ数不知、其外在々等
皆潰死人等数多御座候よし右三ケ所之分は皆潰ニ御座候其
上丹波島大川水上山崩にて三所川を埋、四月十二日迄大川
干揚り水一滴も無之同十三日水押出し大騒に相成近辺大水
溢れ川筋村々は家を流し死人等是又何程といふ数を不知尤
信州之事は其辺之人に相尋候得ば委細相分可申、先噺に承
り候荒増相記し申候(註、此時直海浜光徳寺住職皆応師善
光寺へ説教の為、出張中震死す)
一未ノ(弘化四年)二月下旬之頃西南の方に細き旗雲暮六ツ過頃少しの内
相見申候翌日よりは相見へ不申候
一当村方にては三月二十四日より四月半過頃迄昼夜小屋住居
いたし候其よりそろ〳〵本宅へ移り候ても夜は常燈明にて
寝所へ入候もの無之只爐端に転び寝に御座候
一七月十二日夜余程の地震有之少々づゝ之分は度々にて同十
九日夜七ツ時頃又々余程地震にて皆々家を逃出し心配仕候
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻6-2
ページ 1680
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 新潟
市区町村 柿崎【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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