Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J2100076
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔外様村史〕下水内郡外様村(現飯山市)S32・11・30江口善次著 飯山市公民〓外〓〓記
本文
[未校訂]二 弘化四年の大震災
弘化四丁未三月廿四日夜五ツ半頃大地震あり。上は木曾路よ
り下は越後国頭城郡高田今町辺をかけて一時に震動し山を崩
し、人家を潰すこと其数を知らず。往古仁和三年七月三十
日、近くは文政十一年霜月十二日越後三条地震にもまさる大地震にて、その大変言語に絶し前代未聞の災害であつた。飯
山領内でも山ノ内、川辺、外様でも所々に山崩れがあり、其
損害地千五百石余(公儀への届は一万石)であつて、中でも
中条、中曾根は最も甚だしく、田畑の損害のみならず人家を
押潰し、人馬の死傷も頗る多かつた。まず中条村の分を見る
にあけび窪の池抜出し(川水の部参照)
一 潰家二〇、家泥おし一一、上蔵泥おし四、家半潰二、物置
三、水車三、土蔵潰二、人死亡二五、馬死亡五、丑死亡一
二 〓畑の泥入、石入水損等の為荒地となつたもの田六町五
反四畝十六歩畑一町三反三畝七歩峠新田を加えて田七町壱
反三畝拾歩〓計八町四反六畝拾七歩高九拾三石三斗七升四

に及んた。(弘化四年末八月中条村今清水弥吉記録)この潰地を地字別に見ると
田畑当
大屋ち 一石一斗一升二合九勺 所有者八人(名略ス)
大日向 九斗五合 〃 六人
戸狩林 九斗八升五合 〃 四人
米山 五石五斗七升九合五勺 〃 四人
五斗入 七斗六升弐合 〃 五人
うとの人 六斗六升一勺 〃 五人
寺山 一斗九合六勺 〃 二人
二俣 一石三斗六升一勺 〃 八人
岩下 八斗三升九合二勺 〃 五人
こがつは 五斗五升五合一勺 〃 六人
判官平 三石三升一合九升 〃 十二人
うぐいす 九斗三升五合九勺 〃 四人
山伏池 一石一斗四升七合一勺 〃 九人
小豆場 五斗五升五合九勺 〃 二人屋敷 二石一升七合 〃 六人
〓中 一石八斗六合 〃 二人
城の腰 六斗四升四合 〃 二人
四森 四石四斗五合八勺 〃 六人
清水尻 三石六升六合五勺 〃 二人
やはき 上田二石二斗五升 〃 一人
六反 六石三斗九升一合三勺 〃 三人
さつま 二石六斗四合 〃 二人
山伏塚 六斗八升 〃 一人
前久保 一石七升九合 〃 一人
灰塚 一七石二斗一升四合 〃 三人
辻ノ内 一石五斗七升一合六勺 〃 二人
中西 三石九斗四升一合 〃 三人
滝沢四石八斗八升一合 〃 二人
大田 四石五斗九升 〃 一人
岩石場 八斗五升九合 〃 七人
高畑、滝ノ平
山田 六石三斗三升二勺 〃 一〇人
つぶら田 三石九斗八升五合五勺 〃 六人
やち 二斗八升六合 〃 二人
はなまがり 一石七升六合 〃 六人
又たび、山田平、水落
風おし 一石四斗 〃 四人
以上の地字によつて知られるように崩壊した所は多く中条入
の山地、又は滝沢川の扇状地であつた。
次に顔戸村庄屋三橋助三郎の一弘化四年未ノ三月廿四夜地震
潰焼失御救金割帳一によると死亡者男三人女七人負傷者女房
二人、牛一疋潰家十九軒で土地の潰れたものは「弘化四年未
三月当三月大地震節田畑荒地御書上控帳顔戸村庄屋助三郎」
によると次の如くである。
境 三反六畝十九歩
雪久保 三反六畝拾六歩
木おとし 一畝九歩
観音下 四畝拾弐歩
中帰り 一反十八歩
山田 三畝二歩
中島 三畝四歩
北堀 四畝二十歩
久保田 三反四畝二十歩
屋敷 五畝歩
川原田 二反二畝一歩
中田 二畝歩
いの木四 十八歩
滝の脇 一畝十歩
かねつけ山 一畝十一歩
笠のこし 一反歩
くそたわけ 十歩
せき上 十六歩
かそう田 二反四畝
とへつみ 三畝
川原 六畝十九歩
石田 二反七畝十二歩
ひへ田 二反一畝九歩
水尾かへ 一反二畝十四歩
そり畑 八畝廿五歩
もち田 一反八畝十四歩
道下 八畝二十六歩
北原 一反一畝十五歩
才の神 二反三畝七歩
十王下 二反三畝十四歩
谷地くら 一反五畝九歩
大宮田 一反十歩
以上によつて此震災のため顔戸村で荒地となつた面積は三町
九反三畝十八歩、石高にして四拾壱石七斗四升六合(内本田三拾三石四斗二升九合本畑七石一斗五升七合卯改 畑田掘六斗六升戌改畑田成四斗五升弐合亥改田方四升八合)で地字は前記
三十二字八十三筆にわたり、其範囲の広く被害の大なる前代
未聞の大災害であつて其復旧も容易でなく、翌嘉永元申年に
起返りしもの僅に三反弐畝で之に要した労力は弐百廿八人の
多きを費したことを以て想像出来る。爾後村民不断の努力に
よつて安政五戌年に至つて漸く大部分の復旧が出来たことは
「安政五年午年改荒地段々御高請覚帳顔戸村庄屋助三郎」に
よつて知ることが出来る。尚此被害地にも中条と同じく山手
及び川添に多かつたのである。平井三斧翁の養母も此震災で
太柱に打たれて圧死した。孝心深き翁は此材で養母の像を刻
んで仏壇に安置しその冥福を祈られ、今も同家の仏壇に飾ら
れてあり、又同時にその材で自由鍵の処につける鯉を彫刻さ
れたこれも地震と同時に火災の起る所が多かつたが、養母が
火を十分にとめて置いて火災に罹らなかつたことから火の元
を大切にすべき事を示されたものであろう。
此災害の最も激甚を極めたのは中曾根村で当時同村の戸数四
十三戸、人口男九三女九二合計百八十五人中、潰家十九、死
亡者村に居つた人だけで六十三人、たま〳〵善光寺に御開帳
があつてそこへ参詣に行つて居つて圧死した者三人、合計六
十六人も死んで居り、村上から山が抜け出して来て、現在県
道のある所まで押し出し、已前に隔離病舎のあつた小高い丘
になつているが惨禍が余り甚だしかつた為か同村には地震の
恐ろしさと災害の甚大であつたことが言伝えられているだけ
で記録の徴すべきものがない。たゞ小境善覚寺の僧忍の「地
震亡霊棲神之域」という前の写真に掲げた石碑とその裏面に
次のような文があるだけである。この文も僧侶らしく之を業
縁とし一仏神知て救はざるは不慈なり識らずして護らざるは
不通なり」など言つて居るだけでどこがどういう風にしてど
れだけ潰れたか荒れたかというような事やその災害のあとを
如何にして復旧したかというような点には触れていない。此
碑によつて知り得ることは地震のひどかつたこと民家の潰れ
たものが十九軒死者六十三人と善光寺で三人死んだ事がわか
るだけであるのは物足りない感じがする。同碑文を左に掲
ぐ。
惟、夫大地之動也不能無所以平。今拠聖縠験之槩有四由。
動相亦有六種。如彼々説粤。弘化丁未三月癸卯既此震生青
有発焉。上首干曇科之二郡下覃干北域之郡邑。其延百余
里、其袤或十余里、崩於層巓、泥黎庶雖動勢稍不斉、損害
尤夥矣。就中此中曾根邨、卅間里県聯以左右、前田後峰咸
便乎。農桑可謂豊饒之耳。豈期乎、是夜亥刻許天地遽然大
震動、山岳頽巌転石飛樹覆水溢、千雷万雷、声響干乾外、
勢干坤底、民舎為之顚滅一十九軒、群蒼匇不狼狽。或有懐
幼孩而曝深沈、有或夾梁棟而噭爺嬢、半身埋土微躬沈沈、
游負重圧材、肌割膚堕骨摧血流、于縦于横棊倒麻散著鴈行
似魚串、如斯亡者凡六十有三矣。加之于仏都灰死者又六人
矣。其余疾病不可勝計。嗚呼時耶命耶、有云衆生発信冥衆
無時不守。然今已有此妖災。仏神知而不救不慈也。不識而
不護焉不通也。倘有所弁請聆之。曰云々知別録、茲不労石
工也。又日人生天地間也形懐則魄去。神馳泯然無蹤造碑、
尊又是一時之好事而已。嵯遠却毒気深入膏盲、昏々可蒙々
無哉。夫神霊従本末嘗生死、生死自此身体名焉。何則神来
而託此形骸且呼而各生離此之称死蓋神之去来也、随業縁業
縁尽則形壊、神去而令世所作業自然牽引、易殻投昭致、便
生死更無窮是則金山氏所謂三四流転相也焉。謂形与神共滅
耶、今有倖脱災全命之親族、慇営精魂所皈以霊碑於予敢不
固辞攬〓記厥一端云爾
嘉永三歳次庚戌三月草覚僧忍大我〓
(久保田氏の字による)
以上記した様に山麓地帯は甚だしかつたが尾崎法寺等は比較
的少かつたようである。尾崎村服部作右衛門は後にこの地震
について一弘化地震当時に潰家七軒、潰れ焼一軒、自家も潰
家の一なり七十余才の老母圧死す。予は五才にして九死の中
に一生を得て地震の五十回忌を営む。因に記す此震災近くは
中条、中曾根、顔戸の山崩れ中にも大災に罹りしは中曾根村
にて何分村の中央と北隅を截り抜け出しを以て三十余戸の村
半分泥中に埋まり圧死せしもの六十余人なりといふ。」と記し
ている。此服部作右衛門は明治二十二年町村制実施の時初代
外様村長となつた人で地震に生き残つた人である。
法事(ママ)には地震についての記録が無く其真相を知ることが出来
ないのは遺憾である。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻6-2
ページ 1079
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
市区町村 外様【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.006秒