[未校訂]弘化四丁未年三月廿四日四時頃江戸を始其外□(ムシ)程之地震之処
井水大かた濁り是迄強地震有之といへとも右躰井有之濁之事
無之此もとハ信越両洲就中信州水内郡善光寺北之方吉田宿い
なつみ村山口西条あち町宿治間村新光寺神山中宿高坂武(牟礼)連町
小ふる間大ふる間は甚敷黒姫山辺南之方石堂村問御所中御所
荒木村和田笠間・松岡新田上下高田権堂町柏原辺牛馬多損し
夫ゟ高井郡ニ至り東之方小布施宿すさか城下辺大地裂土中ゟ
泥水湧出し人馬多くしす
更級郡丹波嶋辺ゟ東西九拾四ケ村姥捨山此辺強大地悉裂土中
ゟ煙りか炎かのように何とも知らす吹出し眼をくらまし地裂
し所に蹈込抔して死没するもの不少又松代の城下辺七拾余村
小県上田城下辺百五拾三ケ村追分軽井沢履(沓)掛上州口迄此辺山
鳴動成雷のごとし西の方御獄山より塩尻迄人馬多死諏訪郡高
崎(嶋カ)城下ゟ西のかたに至り百余ケ村此内諏訪の海溢人馬家々多
く死没ス
佐久郡山辺尤強し安曇郡北のかた百三拾村程損す此外筆紙尽
しかたし
村々在々老たるを助け幼きをいだき猛火ニむせび泥水にまぶ
れ難儀いふ計なし然ルに善光寺如来此節供養開帳ニ而諸国ゟ
参詣多く怪我死者有之趣如来の堂は更ニ障りなく籠り居たり
し者は無難のよし右霊像供養の前右善光寺近辺如来堂様々の
異成し事有之しと弘前家藩此節彼地より罷帰り物語有且翌廿
五日朝六時頃漸く静り地頭御代官ゟ手配有て人民を故ひ火事
を鎮め水を防爰におゐて漸く案堵の思ひをなす也
四月十三日 堀長門守御届書写
(注、この一点以外はすべて「史料」第三巻にあるため省略)