[未校訂](注、〔府内藩日記各種〕にない部分のみ掲載する)
(府内由来日記)
安政元甲寅十一月五日申時大地震、府内御城内、町六分方
タヲレ、郷中三分方タヲレ、其日昼夜十八度。七日辰時大
地震。東口西口石垣落、北口御定場間御櫓、御城内皆、大
広間斗ニ成。町家寺方八分方タヲレ、凡四十日、少宛。其
間困窮人玄米二合宛御下相成、又タヲレ家分百目宛被下
十一月十六日、大工、石工、左官、根屋葺の賃銭を、各銀札
六匁五分、平日雇を六匁に値上げし、実意に働くよう諭告し
た。十七日から北ノ丸に、藩主の仮御殿建築に取掛り、二十
九日柱立をした。十二月九日十日の両日、藩主近説は城下な
らびに三津留、萩原を左の如く巡視した。
(府内藩日記)
同年十二月九日
一此節大地震ニ付、御城下潰家被成御覧候旨御沙汰、右ニ
付御城下軒別ニ名前相記差出候様、是又御沙汰、丁々え
も何町と書付建札申付。八ツ時御供揃ニて出御。此方共
壱人御供被仰付候ニ付、東磨御供、町廻両人、御先払差
出ス。暮前御帰
同十日
一九ツ時御供揃ニて三津留萩原潰家御見分被遊候段御沙
汰、夫より松栄山御参詣、町廻り両人御先払、鹿平御供
かくて十三日、廊下橋前の仮御殿において、近説は左の直書
を発し、藩士や城下の住民に手当を支給した。
同時に東西村々にも、倒潰ならびに大破の修繕手当を給し
た。やがて北ノ丸に仮御殿が出来たので、十六日近説はこれ
に引移つた。
地震後、庶民救護のため、諸職人の運上を免除とした。しか
し安政四年四月二十一日に至り、既に平常に復したと認め、
運上を上納するよう命じた。