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項目 内容
ID J1900466
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔高知市史 上〕S33・11・1高知市史編纂委員会編・高知市発行
本文
[未校訂] 安政大地震 安政元年(一八五四)十一月五日の大震で、
前日来しばしば小震を繰返し海潮の干満もただならず、つい
に当日七ツ時(午後四時)になって大鳴動を起した。民家で
は夕食のために炊事中だったので、倒潰した家屋からは忽ち
出火し、それに津浪まで押寄せて下知の堤防を切り下町一帯
に浸水、その被害は惨状を極めた。歌人鹿持雅澄はその日記
に左のことく記している。
五日、七ツ時大地震、折節今日二丁目河原に於て相撲の最
中右の通りにて相撲場混乱、人傷みも有之由承る。上町二
丁目横合別して壊屋多く、其外大動にて死傷も有之由、下
町は壊屋所々許多(ママ)にて其上出火に成り、堀詰より東は大半
焼失、人傷も有之由なれども詳悉の処は未承得、同夜六ツ
半又々大動に付下の畠へ戸板敷き臥明す。少々の地震は数
度なり。この地震の間地震ならずして鳴動すること、たと
へば大砲を発したる音の如し。
被害については、その日記に「千八百七十四軒焼失、六百二
軒崩家、御町方支配にて死人男女共九十一人、行方不知十三
人通懸り死人四人、馬二疋焼死」と追記してあるが、一般史
書には流失家屋一千六百七十六戸、倒潰家屋五百六十八戸、
死者百六人と示され、焼失家屋はあげられず、ただ唐人町、
弘岡町及び朝倉町の南側(米倉を含む)、掛川町、要法寺町、
堺町、八百屋町、京町(町会所及び官倉を含む)、農人町、
北新町、鉄砲町及び下知を除いて町方目ぬきの場所はほとん
ど焼失したことを伝えている。
土佐国内の被害総計は死者三百七十二人、傷者百八十人、焼
失家屋三千三百一戸、流失家屋三千八百十一戸、倒潰家屋四
千八百二十六戸、半潰家屋一万二百九十戸と記録され、郷町
や浦町の損傷被害も甚大なものがあった。
(参考文献)1山内家日記2山内家記録3南路志
4宮地日記5三災録6御国年代記
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-2
ページ 2326
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 高知
市区町村 高知【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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