[未校訂]翌安政元年には、有名な安政の大地震が起った。土佐全国の
死者三七二人、傷者一八〇人、焼失した家屋二五〇〇軒、流
失の家屋三二〇〇余軒、全潰家屋三〇〇〇余軒、半潰家屋九
〇〇〇余軒というから、土佐古今の大地震で、文化十二年亥
の年の大洪水と共に後世に言い伝えられた大天災であった。
当時の記録によれば「嘉永七年寅の年(嘉永七年に年号を安
政と改める)八月五日より六日まで西川・東川より槇山まで
大地震。同十一月五日より御国中大地震、その年十二月三十
日まで夜昼ゆりやみなし。その内十一月の五日七ツ時より、
御城下は申すに及ばず、西東浦々町々は大いたみ、其の時津
波うちこみ、浦々御城下共におびただしく人家大いたみ。も
っともそのうち十二月十日同十四日の夜、三十日大分えらく
ゆるなり。明くる正月二日もゆらん日は一日も一夜もなし。
初めて地震ゆる四五日前は、地がづんづん鳴る。一、二年前
どしより粟、そばを虫食うなり。もっとも大ゆりの時、泉の
水増し其の後十二月二十日より、大峯谷水あき、正月末方ま
で一水もなし。正月末方より水出来るなり。四月五月頃も地
震は揺りやまず、もっとも此の内ちくちく間はあるなり。九
月十日の晩大分えらしと。」(天地の間の事覚附)
最もひどかった十一月五日には「家屋動揺し、壁や瓦は落
ち、戸障子がはづれはじめると、人々は驚きあわてて顔色を
かえ、牛馬をひいて附近の竹やぶに避難した。杉田では大き
な岩が飛竜の勢で杉田井に落ち、白川では大音響と共に有ノ
木谷に山崩れがあって人家が埋り、西川・永瀬でも岩に打た
れて死んだ人があった。五日の夜は一夜のうちに三十五回も
ゆり、地面に板を十文字に敷き並べて、更にその上にむしろ
をしいて坐り夜を明かすことになった。夜半になって突然太
郎丸方面から、『盗賊が来たからめいめい手道具をもって出
向え』という大声が聞こえて来た。それに続いて『津波が来
るぞ、大川の水が塩からくなった』とさけぶ声も聞こえた。
地震のため恐れおののいていた人々の心は益々動揺し、手に
手にたい松をかざし、米袋を背負うて山へ山へとにげ去っ
た。五百蔵・白川・有瀬・日ノ御子・谷相・野尻・太郎丸・
韮生野・小川・吉野・拓・永野・朴ノ木等目の及ぶかぎりた
い松の明りが続いて、星のちらばったような状景を呈し、赤
子を背に、老人を肩にかけ或は手をひき、又生んだばかりの
嬰児を置きすてて、にげる者もあるといったさわぎであっ
た」が皆流言で津波は来なかった。