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項目 内容
ID J1900449
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔室戸町誌〕○高知県S37・12・25安芸郡室戸町誌編集委員会編・発行
本文
[未校訂]4寅の大荒れ(嘉永七年・安政元年甲寅の大地震)
安政の大地震この夏は大日照がつづいて百姓は毎夕空を
仰いで、一雨ほしやと祈ったが、七月の中
旬から雨が降り始め十月中旬まで長降り(御入国以来年代記)
が、つづくと云う片日和の年だった。畑作は「大変良かっ
た」が「種は出穂になって虫がついて」いたみが甚しかっ
た。「寅の年」と云う印象が人々の頭をおしつけたが、霜月
になって果して「寅の大荒れ」が現われたのである。――そ
れは十一月四日と五日の二日連続して史上にも珍しい大地震
が起ったのである。土佐では五日の地震が激しかった。
四日の地震は東海道・東山道・北陸道・山陽道・山陰道・南
海道・西海道に及び伊豆の下田や大島にも津浪が入って、多
くの損害を生んだ。
室津・浮津の情況は当家記(西宮)にやや詳しい記事があ
る。
「五日。七ツ半時(暁の五時)稀なる大地震、津浪入。大
変に及び誠に恐驚至極――一統我先に立退事のみ。大騒に
至り候――誰と無く只右往左往にて山へ山へと逃退いた場
合――西の方から大音にて申し来るは……引き潮烈しきに
つき、片時も油断為し難しと……沖合を見渡せば……易か
らざる次第に成り行き――既に奈良師の前のシバヱ(師碆)
と申すは昔より見たる人無之に此の度は(引き潮がひどい
ので)、碆の根より長さ一丁ばかり山の如く相見え候」(と
云う異変を見せた。今度のこみ潮に大津浪が襲うて来るの
ではあるまいか、と人々は大いに恐れふためいて)「只神
仏を尊び、人力の及ばざる次第」――と運を天にまかせて
いたが……しかるに神慮に叶ひしか汐の上りも少なく――
(津浪の難もまぬかれる事が出来てまづ安心。)あまつさ
え、室津港の潮四尺計りも足り申さざる様に相成りて、両
津は申すに及ばず、諸船入津出来申さず指つかえ……
と云う様に地盤の隆起を見た。この一事をもってしても仲々
激しい地震であった事が充分に理解された。地震の直後――
浮津下町から出火し大騒ぎとなったが、間もなく鎮火した。
「浜辺の納屋は引きこワれ」「殊に川の西側は大半つぶれ」
て仕舞っていた。
室津湊がこの地震のため、四尺も隆起して港内が干上り、船
の出入が出来なくなった事は既に一言した。ここに室津港普
請の問題が起って来た。「この度、御普請見積凡そ二万人程
の見積と申す様の大いたみ……」と云われたが、実際のいた
みは今少しひどかったようである。その後三年たって安政四
年二月下旬頃から、普請はやっと始まった。
「御普請、御積人夫凡そ五六万、湊口に中ばいと申す石御
座候処、波止場え、ろくろすゑ、毎日男女赤手拭にて大石
引き賑々敷く、内は水車をすえ、潮をせかせ、ごみをさら
え、凡日数七十余日も懸り、程無く五月節句相済……」
(当家記)
かくて、目に青葉して初鰹釣りの櫓声に港の活気をとりもど
す事が出来たのである。この年、
「麦は豊作、白米は壱貫に壱升。麦は二升。からいも壱斗
の代金八九歩、かんば壱升拾七八文。――松魚船も鰹大漁
で「浦々賑々敷」と書いて、蘇生の年を祝福している。
尚この地震については、元脇地の坂本勲の曾祖父十郎(当時
二十一歳)の書いた大地震洪波事記(大ぢしんつなみの事し
るす)が現存していて、克明に当時の情況を伝えている。
「于時嘉永七歳寅十一月四日○不明つ時近年珍ら敷地震いた
し、皆々大気におどろき候処、さしての事も無御座候と皆
々安心致候処、其日は無事に有之候処、其翌日五日ひる七
ツ半時頃、十郎三津鯨場用事にて参り申候て、保馬様より
御酒拝領被仰付御馳走被仰下候て、直様七つ頃宿元へかへ
り申候処、実は大酒仕前後もしらずたどりたどりたどりて
帰宿致候処、不計蔵戸の宮の下に小き川有、於此所大地し
んいたし道中あるくことかなはず、ようようと山中虎衛門
殿宅のほとり迄参り候処、[早|ハヤ]蔵のひさしおち、僅に其時は
も早死るは今なるかとみのけもよだつばかりに候処、大分
やわらぎ候て、それより直様足に任して浮津をさして行け
る処に、道々はわれ、人家はみだれ、僅にその有様何にた
とへんかたもなく、浮津に参着しけるに、数人中道寺山へ
逃げ登りける。皆々浮津の人の言分には、早磯がした(ひ
いた)というて、[洪波|ツナミ]がくるとそのさわがし事言ばかりな
し。それより十郎浮津西町に行ける処に、人々町中に雨戸
を敷、その上に坐する者もあり、逃る者もあり、その有様
目もあてられぬ次第也。それより十郎足に仕して岩戸奥宮
さして急ぎける処に、浮津の磯田のほとりより浜を見物い
たし候処、沖に有之諸人存じ候通しばいの石と申て山の如
くみえ、浜は壱町余りしお引、しばらく見物いたし候へど
も余りおそろしく候て、小山の方に逃行候て、ようすを見
合候処、波山のごとくなりてなら師川へ打込あり様、おそ
ろしく事いうばかりなし。且又六地蔵(今の造船場)のほ
とりは大海となり、それより十郎行ことかなわず、浮津有
之長仙寺山五合目迄逃登りようす見合、岩戸さして行ける
処、岩戸御家内様早御本家へ御出被遊、あとをさして行け
る処に、不計岡山の下にて御目にかかり、直様岡山五合目
へ逃登りけるようすを見合、御本家へ行けるに、川はわた
りぜ迄波打込、橋の下迄波来り候〇〇不明御座候。それより御
本家に行けるに、屋敷外かわの塀きしかけあるいは長家の
かわら七分どうりおち、皆々御家内様山王様へ、西の方の
桜の木の下へ戸いた畳などを敷御出被遊、その夜四つ頃又
大きなる物ゆり申候。これより六日七日八日九日十日十一
日十二日十三日十四日十五日十六日十七日十八日十九日廿
日廿一日廿二日廿三日廿四日廿五日廿六日廿七日廿八日廿
九日朔日十二月二日三日四日迄地しんいたし申候。皆々ハ
キ地(脇地)の人は崎山へ逃登りける。あるいは元坂の常
平作りの田へみなみな小き小家を打、十四日五日暮しけ
る。皆々大気にめいやく(めいわく)をいたし申候」云々
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-2
ページ 2309
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 高知
市区町村 室戸【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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