[未校訂]小倉記
安政元寅年十一月五日夕七時頃、地大イニ震ヒ国中其ノ災ニ
罹ラザル所ナシ。中ニモ高知及ヒ近傍江廻リノ諸村モツトモ
烈シク、屋宅・倉庫土崩レノ響、男女老幼号泣ノ声、水鳥驚
起ノ音、地震ト共ニ人ノ耳目ヲ驚カスノミナラズ、河水濁リ
テ減少シ、井水時ニ涸レ、堤破レ樹木抜ケ、コレニ加フル
ニ、北町火烟天ヲ焦ガス。数百千ヲ焼滅シ、[海嘯|ツナミ]マタ[尋|ツ]イデ
来リ、諸所ノ堤、コレがタメニ破レ、ツイニ潮江・新町下モ
地・比島・田辺島・新木・高須・葛島等一面ノ海トナル。海
上ハ人家ノ諸道具乱流セリ。海嘯ハ去来定ラズ、一日数々及
ブ。北町・原野新町ノ人家皆水ニ沈ム。浦戸町・朝倉町ノ人
家二丁四方焼失ス。其ノ余ハ皆大破セリ。上町辺ハ土地堅固
ナルヲ以テ潰家少ク傷家多シ。山内家ヨリ幕府へ届書左ニ録
ス。地震ハ余別ニ詳ニ記ス天守壁破損。矢倉九ケ所大破。多門三ケ所大
破。城内十二ケ所破損内塀三十六ケ所大破。旅屋敷三ケ所破
損。土居屋敷三ケ所大破。役家二百十四軒焼失、流失潰家
共。船倉十一ケ所潰。厩二ケ所焼且潰。高札場十二ケ所焼且
損。侍屋敷三百五十九ケ所焼失潰家共。市郷家数一万七千四
百六十九軒焼失、流失潰家共。亡所土蔵納屋三千六十軒、田
地二万千五百三十石九斗損田。社神四十六ケ所焼失、流失潰
共。諸堂百三十七宇流失潰共。土堤五万三千五十二間破損。
往還九千二百二十七間破損。井流三十八ケ所破損。橋六十五
ケ所流失且破損。港七ケ所破損。炮薬室三ケ所破損。大炮十
五挺流失。小筒百十挺流失。船七百七十六隻焼失且破損。引
網三百七十七挺流失。筧四ケ所流失。米一万七千五百八十九
石流失且濡傷ミ。籾二千九百四石八斗流失、濡傷ミ。雑穀三
千六百三十九石流失、焼失。鰹節十五万流失。菜種二百六十
六石八斗焼失。燈油二百挺流失。甘蔗二万二千貫目流失。甘
蔗車二挺流失。蜂蜜千貫目焼失。怪我人百八十人。死人三百
七十二人。死失馬三十八疋
(異筆)
「右ハ小倉克治知行筆記抄出」
嘉永地震記
時変の大なる地震津波に過たる物なし。又大雷・大火・大
水・大風・大雨・山汐も是に継ぐ。さても去る寅年十一月四
日・五日の地震、甚敷少し斗りの夷(異)にぞあれ。国々の大地震
にて津波の入りし国十余国にて、国により大火となりぬ。此
波により、火にかゝりて死せる人多く、家は言ふに及ばず、
牛馬も亦同じ。いと憐なる事なりし。土蔵は土を震ひおとし
たるを火に至れば、重代の宝も是がために焼失すること夥
し。此時下野国二荒山の近辺、大雷・大雪数日昼夜止む時な
く、人の死したる、極めて多しとぞ
本朝かゝる事多からず。されば子孫の為、人の為にと筆とり
て、此の一冊を記しぬ。すべて雷水風雨は天色の有様にても
知りやすかれと、下野の如きに至りては、のがるる所なし。
恐るべき事ならずや。故に、古人の言ひおける事どもを書き
記して、おしへの為とす、地震の時は天色ほど遠く、星光近
く見え、雲行も下近きものとぞ。此の度も同じさま成りし。
津波の入るべきは潮の濁れること、十日余の以前、空中馭馬
の人、船の形等見ゆる事あるものとぞ。大火の時は、鼠かげ
をかくして音せぬものとなん。中須賀焼は御国中の大火成り
し。此の時かつら島の渡しを鼠東へ渡りし事の夥しかりに、
不日大火なりしと。山汐は山の腹よりしづくのもれ出て、次
第にしたゝる水多くなるものなり。此の時早く其所を立のく
べきものとなん。これぞむかしより人の言ひ伝へし言なり。
さて雷にうたれたるは、いきたる鮒にて、むねより初め、一
躰をよくなづれば、蘇るものなり。へそひらきたるは救ひが
たしとなん。此の故に、ふなを井に入れ、目細き網をもつべ
き物にこそ。雷の後、雷の毒の発する物なれば腹薬すべしと
古人言へり。又大火の時は、生大根を口中に含めば、煙にま
かれぬものなり。又地気三寸は煙さがらぬものなり。水にお
ぼれて死するは、山がらと言ふ鳥の黒焼を口よりも鼻よりも
吹き入るれば、水をはくものなり。又長きこよりの先に油を
つけて、口よりさし入るれば、油水にあたれば、はくものな
り。平常、火は□して消し、けかれたるものにて消すべから
す。火はあらぶる神なればなり。さて、火事に立のくとて
も、木履・げた等は持ち行くべきものとぞ。我家、焼けずと
も水をうつものなれば、足の踏み入しがたく、ましてや類焼
などせる時は、水・火・ふるくぎ等多くて、足入れがたし
と、我が本性の母の古人の言とて、我に語り給ひしなり
此事等はおもひよらぬ事なれば、平常おもひ忘るべからす。
海漁は好まずとも、此の海国に居する事なれば、船は我に同
じ。唐人は田つくりの民を国の本と言へども、こは海遠き所
に居するの故、かゝる事を言ふなるべし。船人は、きはめて
可成(本ノママ原注)すべきものなり。田作りの民は、食を作るの民、船人は
運送を勤るの民にして、時としては命をも失ふ有り、勝劣有
る事なし。から文になまどいそ。又家作るともひかへ柱を入
るべきやう心すべし。昔の大黒柱は地震の為なるべし。一日
来りし吸江のそぎふきの翁がいふを聞けば、昔は地震柱立て
ぬ家はあやうしと語りし。されば、此大黒柱は、いにしへは
地震柱とも言ひしなるべし。あまりにことやうなれば、福神
にたとへつらむ
安政二年二月初 渋谷茂好書記
嘉永七寅十一月三日 晴 寒甚し。又風あらし
四日 晴 寒、朝五ツ半頃地震少しく強く又長し。三・四
度折返し〳〵ふるふ。北辺尤もあらしと言ふ。蓮池町辺かべ
落ちしとや。御畳瀬比島ふるはず。長浜は甚つよし。御城下
には、家ねぢれし有り。日中三度震ふ。夕方より林源吾・真
辺十郎右衛門来、うなきやくそく也。両人五日海辺の存立の
所、今朝のふるひに付やむるといふ。夜半又壱度。此の四度
は強からず
五日 晴 今日も少々ゆる。束は角力見に行く上川原達枝
は少々風気。安雄は武平をつけ畠男壱ハキラ川夕七ツ半過ぎ、ゆ
るやかに震ひ出す。夕飯済み早速の事なり。お精・八重早速
出る。達枝・自分・女共も出て築山ニ行く。此の時歩みがた
きほどなり。次第に強く成り、屋根地に近くかたぶく。蔵の
壁飛び、立具はづれ、居間の戸棚東へ飛ぶ。甚だ危し。今日
又八は沖男也うなぎ釣に行き不居合源吉は子利太郎疫病にて、三ツ子の娘
も有り、旁々早速立ち除き、前の五藤の藪へ行く。帰り来り
て、くどへ茶釜をうつし、火を消し、自分、火鉢に水を入
る。井戸水なし。水ための水こたつに入る。安雄帰り来て、
武平火を消し仕舞。さて出情立ち除き申すべしと申すことに
つき、西隣の井上の藪へ行く。此の時、長屋は潰れ、其の上
を越し、源吾家内五藤に行きしなり。門の往来絶え、佐々木
よりと定(〔本ノママ〕原〓)行く所、佐々木蔵潰れて道なし。西のどよふ垣を押
し分け行きしなり。程なく夜に入り震ふ事度々なり。一度甚
だ強し。四ツ前又甚しく、竹をおさえて座す程のゆりなり。
此の時に当りて、すさまじき音あり。汐入来るとて、小助大
声にて立ち除きをすすむ。八軒町いづかたも立ち除きしと
て、源吉家残らず来るにつき、束と八重に手をひかれ、新馬
場まで行く道の潰家多し。かゆ留守より焚き来たる。此の
時、小米・奥村・麻田等壱所なり。夜、度数知るべからず。
朝七ツ前後の震るゝ事甚だしく、御厩の飼料役のこ屋潰れ。
五ツ半頃まで居る
六日 晴 四ツ前、鎗・長刀・刀・たんす取寄せ、夜具を
かゝげ、一同小高坂山へ行く。大小帯し候は、お精・八重な
り。山ニ来ては服部・前野・今枝・林栄平と同居。今昼夜震
ひ数度なれども、山上甚だ震ひ少し。茨木谷の上、大根畠な
り、今日も留守よりかゆ飯どもたき来り、酒来る事
七日 雨 今日も数度震ふ。今枝は久万へ行く。林は小笠
原知行所杓田へ行く。自分先づ相原九十九方へ行く。四ツ頃
束宅江来る。此の時又大いに震ふ。篠原丸より百姓来る。留
守小家の事等大様申し聞かす。又山に登る。下田来る。今夕
より山にて飯焚くなり
八日、晴。処々より人来る。百姓ども又来る。震ふこと数
多し。風
九日 晴 昨夜下田は別に成る。夜九ツ過ぎ又大震、小は
数多し。爾来、勝手向頼米あづけ有之新堀の木商人米屋源次
え、七拾五石つけ込みこれあるところ、残らず焼失。又御役
料目録も正米拾三石も焼けしと申す事につき、大いに心配、
組頭次平来り、詮儀に及び候ところ、十分に相わからず、汐
は引かず、比島・田辺嶋・下地・弥右衛門・左衛門・葛島・
高州たるみ、新木・大津・潮江等残らず所々ともに汐[干|ひ]ず、
下地堤等八助辺も同じ。(ママ)少将様御釣場の堤切れ、地さく
る処甚だ多し。布師田の藪等甚だしと言ふ。八軒町林の前
後、武藤・落合とも三軒屋敷甚だしく、中にも武藤の角の町
大にさけぬ。又中島町篠原の屋敷門前等もさけぬ。我居宅は
さけず。是は昔、天満宮の御社地にして、今の所に移し奉る
時、ここは後、居屋鋪になりしと聞く。さて後、吾川某禄五
百石にて地をかため高くしたるよし。前々の住前野盛右衛
門、我に語りしなり。さもあるべくや、地中石多く、又並び
屋鋪よりは高く、此度汐入り来りて、五藤の東隣前野の門を
上へまで汐入り、船抔乗りしにも、門前までも来ざるなり。
又五藤の西堀の近辺はさけぬれども、此の屋鋪の西の土手は
さけず。今日、北風強し
十日 晴 昨夜より寒甚だ強し。御飛脚立壱通、林源吾え
頼む。七日にも立しかども、間に逢はずして、川島小助より
留守の家来るなり壱通指立てしなり。中島町・廿代等所々にてにろぎ
とる。山田市にてかれを取る。比島にて田の中に網をうちて
甘鯛五ツ入り来る由
少将様御用のいな、介良、三軒家にて、石田取来ると言ふ。
下町爾来の井水三尺ばかり高し。潮江の井、塩気甚だ多し
十一日 猶山に居る。晴。川善敬吾酒をくれる山川家来なり
十二日 晴。今日山より帰る。自分・安雄駕籠なり。帯
刀・お精・八重・又利太郎駕籠なり疫に付てなり小高坂より常通
寺前、北奉公人町より本町、寺村の横町より南、御屋敷前よ
り東へ帰る。早速門を建て候様申し聞かす。建る小家は寺村
界の梅の木の本なり。源吉は長屋東の畠なり。是までのゆ
り、大いに強弱あるなり。傷まざる所、厩・カマスミ部屋一
軒・搗屋尤も佐々木蔵潰し時に中柱少々傷む米蔵・湯屋。然れども少々の傷みは
あるなり
一束・達枝・源吉・小者等、火事装束なり
一服部十右衛門は家内薊野前惣領の方、前野求衛は元滝口直
意方借入し、品々夫々かへす
十三日 晴 寒 先日以来焚出しのかゆ、天満宮の高場撞
崎町等にて遣わされ、黒五合、米八升の由なり。昨日大庭よ
り酒来る。今日楠平来る肴商なり出入の者鯨壱貫に八拾匁。自分遣
い銭残りこれあり三匁分調、鷲見たかせ(〔本ノママ〕原注)、達枝持参。百姓ど
もより、さめ(えカ)ん進物。六ツ半頃よほど震ふ、数は多し
十四日 晴 夜明けまで七・八度震ふ。二度は少し強し。
西風寒し。客多し。利太郎病気。今日より人参入る。源吉母
病気なり
今朝法書
米二升・水二斗・かゆ二度なり。今日より大工、百姓来る。
かゆは自分より初め残らず。上にも壱度の御かゆと拝承な
り。次平帰り来る。目禄(ママ)さはぎ候由、源次申すと言ふ事にて
大いに当惑。まさに詮儀を遂ぐべしと申し聞かす。地震今日
も同じ数度
十五日小助を又下へ遣わす処、目禄は坂田やにこれあ
り、焼失につき、坂田屋より恐れ入る申出にて仕替仕るべし
と申し出、大いに安心。御奉公料も焼失につき、是は林源五
郎え仕替申し出相済み。さて、又米七拾五石は処々へうりこ
れある由につき、其の事源次へ掛合に及ぶの処、罷り出づべ
く申し出、百姓ども積払の米やへ参り候処、蔵には十四・五
石残これありとの事より、右の通り顕れ候事なり
十六日 大雪、夜、大西風。御奉公料、御役料とも手に入
り候間大安心なり。依て楠平よりさこし半分調ふ
十七日 大雪、大西風、寒甚し 伝方へ醬油のかす送る。
酒来る。今夜風なし
十八日 晴今日御飛脚立つなり。尤も、昨日、林源五郎
より申し来る為替の事、会所手へ引合す処、未だ御作配行き
届かざるにつき、江戸に於て八歩御かし付の儀掛合に及び候
故、御手出しに相成らずと申し来る
一此の度は御囲米御かし付これある事
一盗人は切捨にいたし申すべき事小高坂山ニ居候と申し下知あり
一竹木代、銀立にて相渡し候事知行に付多少あり格毎に寄る
一今年保佐木相渡さざる事
一嫡子廻番にかゝり候事
一諸士願に寄り、四ケ村の中へ妻子住居御指明、又追々方
限手弘く成り候事、東は一宮・布師田までなり
一ざこ等うるめ等の直高く、真魚は安し
一かぶ所塩入りに付、かぶなし。大根高直。組頭三人よ
り、そば粉進物あり。大いに調法
十九日 晴、寒 震ふ事数度
廿日 晴、寒 震同断。夜一度強し。夜西風。岡村より米
借用申し来る。是まで八斗かす。此の後、てつお種、束うば(〔本ノママ〕原注)相談に
来る。壱斗遣はす。大工以前弐升。祈年神職御旅所へ来居候
て、米相談申し来り、遣し候事もあり。夜数度震ふ。二度強
し
廿一日 晴、寒 震数度。少々は和らぐ
一十一月十日、奥村小十郎江戸へ早追
廿一〔ニカ〕(原注)日 陰 久八今日帰り来る。久八は船子なり。七年ばかり遣ふ。此度の大変に付、
是迄の通り弐人半百三十匁の給にては世間の事もいかがなり。又暇ま遣し候事も、年久しく召遣ひ候者の上、年も六十に近く故、かたがた
以つて並の通りならば養い遣わすべしと申し聞かす所、答には私事も只今備えも奉公の先所もなく、孫などさへ養ひ候へば、宜く候故、い
か様とも仕るべしと申し出で候間、源吉考にて、以来は百匁に二人扶持にて十分なるべしと定め申す事
廿三日 昨夜より陰、晴 震強弱あり
廿四日 震同じ。山屋敷の杉切り、竹切らせてそぎにへ
ぐ。夫々下知に及ぶ
廿五日 風雨、東南風 奥家屋根はぎこれあり、大いにこ
まる。四ツ前後より雷声甚だしく、波大いに高し。雨軸のご
とし
廿六日 晴 今暁七ツ頃〔本ノママ〕(原注)ていむし取死源吉母六十四歳なり百姓を遣
はし、第の〔本ノママ〕(原注)立代斗に遣はし、寺〔本ノママ〕(原注)への事等掛合。此の記別にあ
り
廿七日 雪 朝七ツ過頃てい送葬。西風甚だし。ふるひ同
じ
廿八日 晴、寒、西風 今日御飛脚立ち。夜震ひ少し。強
く四・五度
廿九日 寒、晴、西風大変につき 源吉出勤をゆるす。
十二月朔日 晴 八重ます〳〵乱心にて帰る。然るに佐藤
へ参り度き由につき、甚右衛門へ♠扚(ママ、挨拶カ)の状を書き遣はす。従
弟居り候につき、当時寄宿の様なり。八重此の程乱心なり。
奈半利産。西風。震ふ
二日 晴、寒名半利へ状を出す。利太郎スバクの所、ヿ(ママ)
へ出候まゝ横山にもかゝり申所、今日頃より快方に成る。震
ふ
三日 雪、寒 夜一度震ふ、強し
四日 晴、寒たつ甚だし 西より東、御飛脚着す。震ふ。
五日 寒、晴 久八吸江へ行く。大崎等の汐行き箭の如し
となり。震ふ
六日 晴 奥屋根出来。今日より蔵直しにくる。震ふ
一四日の状未だ御国よりの早追も、奥村小十郎も着か
ず。外国の地震等の図来る
七日 晴、寒 十一月十九日立て候御飛脚着す。御国の御
左右未だ達せず。又江戸八日立て未だ着かず。西風あらし。
震ふ
八日 晴、寒、西風吹く 金受取る。源次方の米代は御損
かけ申さず、今少々ゆるめと連々愁願申し出る。震ふ
九日 晴震三・四度。今日少々強し。大廻り荷出候様申
し来る
十日 晴、寒 昨夜壱度強く震ふ。昼九ツ時よほど強し御
飛脚着す。十一月廿三日立ちなり。渋谷亀六早追にて着す。
人来る。十一月七日立ち、同十一日立ちとも、一時に江戸着
の様子なり。西風。震ふ
十一日 なぎ、晴早々束、亀六方へ行く。震ふ
十二日 晴。戌亥風あらし 震ふ
十三日 昨夜六・七度、五度余程強し。今日なぎ。御飛脚
立ち、為替遣はす。座六拾石残らず。兼て申越し候五十両は
源次米焼候につき不調の段申遣はす。今日、蔵あらうち。楠
平がかつを壱本・大小鯛壱枚、大甘鯛壱ツ進物
十四日 晴 今朝六ツ過ぎ三度。壱度強し。大根来る。今
年かぶこれなきにつき、大根壱桶ます。百一も又多し。夜大
雨。八ツ過ぎ頃震大いに強し、又長し
十五日 雨止む 林より御自筆の写し来り、よみて遣は
す。十一月八日立ち御飛脚着す。大根漬け初まる。北風あら
し。夜大雪。寒、震ふ
十六日 大雪、寒、北風 昼壱度大いに長くつよし
十七日、晴、寒。震ふ。北風、西風
十八日、晴。七ツ時少し強し。六ツ時又強し。利太郎次第
に[吉|よ]し
十九日、晴。庇通り惣そぎぶきに、そぎぶき日々来る筈。
利太郎食進み出る。六・七度震ふ。壱弐度少しつよし
廿日、晴。利太郎ます〳〵吉し。夜時雨。後大西風。震
ふ
一十一月五日の夕方より朝迄の下町大火以後も、所々小
屋〳〵やける。今廿日の夜潮江又大火なり。此外郷中
も火事甚だ多し
廿一日 西風、雪。又大北風、又戌亥風 夜なぎ。震ふ
廿二日 晴 昨日以来蔵へ品々入れる。震ふ
廿三日 晴、陰 震六・七度。八ツ時少しつよし
廿四日 晴 利太郎入参入り止む。今月十七日、年の夜。
今日春気の天色あり。震一度、少し強し
廿五日 晴 御飛脚着す。震三・四度これあり済む
廿六日 晴、暖 常作立用につき、拝借願い出、承け届け
候事
廿七日 晴 六ツ半頃の震少しつよし
廿八日 西北風強し、又潮大いに高し 守此のほど病気の
所、少しは吉し。震三度
廿九日 晴 御飛脚立ち。震数少し
卅日 晴、寒 今朝五ツ時、震大いに強し。五日の次、四
日の上と言ふ事。今朝の震〔本ノママ〕(原注)長かれば、五日にも同じ事なるべ
し。いづかたも家大いに傷む。屋根・壁等其の儘にて押直し
申す所は、初めよりはくるひつよしと言ふ。今日知よしとて
屋根はきかへ直し候事、くるひ甚だ少し。厩今日大いに傷
む。瓦落ち申すなり。昼夜凡そ百度余も震ひしなり。所々潰
家多し。○安政二卯正月元日去冬改元故二年ニ成ル晴、雪。戌亥風寒
し。昼迄六・七度。今日の震つよからず。歳旦の歌
さわがしき年もかわりて朝日かげ
神の心ものどけからまし 寅年暮
かさぬるをうしとおもひし老が身に
春をまたるるとしのくれかな
少将様今もつて御桜山に御小家なり
一松入・算用揚・餅搗・米搗等の吉例も、去年はせず。年の
夜は小物ばかり。大晦日は大〔本ノママ〕(原注)急につき汁ばかり。元旦雑煎(ママ)
も互〔本ノママ〕(原注)生のわん。煎物ばかりなり。
少将様三汁十菜の御料理は壱汁三菜に御仕成させと、追て
御扈従東隣寺村軍馬より拝承。よくこ〔本ノママ〕(原注)そけしゝと存ずる
事
二日 晴 今朝迄十四五度の内、四ツ前後朝七ツ過ぎ少し
あらし。きのふけふ、祝詞人少々あり
三日 晴、寒 源吾来る。震七・八度
四日 雨 朝五ツ半頃少し強し。御馭初めも指し延べられ
候事
一旧冬十五日・六日、新堀様御法事の所、御示し中、作
事は御免なされ候事
五日 晴、大西風、寒 夜、源五郎鴨持ち参る。左内物の
用に立ち候趣なり。今夜源五郎へ酒を出す。夜半あられ。今
日昼八ツ前のゆり長し。夜へかけ七・八度
六日 晴、寒後暖 震五・六度なるべし
七日 晴、暖 今日八・九度。御飛脚立ち延ぶ。御飛脚着
す。十二月十九日迄の状来る。腰痛甚だし
八日 雨 仲広来る。夜へかけ大雨。震ふ
九日 晴、西風 波立ちやむ。十二月廿八日立て御飛脚着
す。正月十七日江戸御発駕の御内定なり。震ふ。仲広来る。
快気
十日 晴 大工ども日の出前より初める。めし四度に成
る。只内勝助来る
十一日 昨夜より陰、入雲早し 今日四ツ頃より風雨甚だ
し。東南風なり。今日は少々しづかなり。三・四度
十二日 晴、西風荒し 今日小家立る。昼夜六・七度
十三日 晴、寒 御飛脚立ち。西風荒し。雪大いに降り、
西より北東までも降り廻る。氷あつし
十四日 氷あつし、晴、寒 昼頃より少々暖。小家ふきに
来る。御飛脚着す十二月卅日立、正月十五日とも十七日とも
言ふ。左内より十五日と申し来る
十五日 晴、盛次第に快 東長屋伊野の喜之助積安く候に
つき、猪之助少々きげんあし。震ふ
十六日 晴、暖 星祭御祈禱来る。今もつてふるひ止ま
ず。今日小家へ来る。いまだ出来せざるなり
十七日晴 尾池源之進暇乞に来る。お種来り止宿。震ふ
十八日 雨 昼夜八・九度。昼一度荒し。夜五ツ頃余程長
く強し。汐くるひしとなり
十九日雨、少々陰今日塩くるひしとなり。込み引き甚
だ早しと言ふ。波も甚だ高し。今朝一度少し強し。其の後
二・三度。夜も震ふ
廿日 雨 三度少々つよく震ふ。お万亀来る。祝い例の通
り。大工百姓へも遣さす。栄平呼びに遣わし来り酒。お種夜
帰る。四ツ過ぎより大雨。大雷。八ツ頃まで同じつよき雷な
り。所々にて鳴る
廿一日 陰、夜より晴 二・三度少し強し。昨夜の雷にて
数少し
廿二日 晴、春気のごとく成り暖和 四・五日の潮大いに
高し。客あり
廿三日 晴、昨日今日暖和なり 昨日二度震ふ。今日昼少
々強し、二・三度震ふ。夕方より陰。江南船浦戸え来たると
いふ。酒こぶ来り請取る
廿四日 陰 思ひ出し、また爰に記す。去年寅年、屋敷
内の栗三度花咲き実なる。三度目は実入り甚だ少し。さてあ
へと言ふ魚甚だ多し。孕より内のもを喰ひとる。又浜の藻を
も食ふ。根よりかれて此の魚磯の岩に黒く成るまで付きぬ。
ざこ場の少し下までも此の魚来りて、手繩引きてあゆを取
も、百二百も入りし事あれや。既にかくのごとく多けれど
も、ふとらず、後おもふに、ものかれしこと此の魚の喰ひし
故ならず、根よりかれしなるべし。大地震の大変ある年なれ
ば、地気かくのごとくならんか。此の藻かれし後は、もを集
めて、やまにてくゝり、此の魚付きを見て、目細き網にてす
くひ取りし者多かりし。此の魚は、もを食ふ魚なればなり。
此の外にも尋ねなば、何かと替りし事、ありし成るべし。昔
宝永の九月には重陽、かたびら御免ありしとなり。今年は春
の入吹きの風雨もなく、雷声も少く、風も少く、雨も少なか
りし事なりし。種崎浜のはとはアサリ貝多く出る所にて、二
月三月の頃干潮の時、大人小児などほり立て、堀本ノママ(原注)によく取
り、浦人などは壱斗にも成るほどなりしが、かゝる大変のき
ざしにや、よくとりたるものさへ、拾にたらずとぞ。〽又西
のはなの処には水筋あり、南にも水筋ありて、中々大い成る
洲あり。春の干潮には腰にも立たぬ程にて、左右とも深かゝ
りしが、大地震に潮引きとりて、此の度十ひろばかりの深底
と成りぬ。〽高森の西のはたのはなは、赤杉の下と言ひて岩
ありて、綱を入るるに、はづれかたく、又此の所にはよく魚
つきし処なりしが、此の岩なく成りし事も此の時なり。〽又
くるすの北、巣山通り、はらの洲と言ふ処なり。此所に竹藪(数カ)
本流れ来りて、藪とみゆるほどなりしとぞ。〽又仁井の沖の
海にも久しく竹立ちて、網引きがたしとぞ。〽又仁井浜へ台
場仕成に行きし者、地震に山に逃げのきて、潮の入るをのが
れしが、潮は来りしかど多くも上らざるに、うさの海、山の
ごとく見ゆ。是れ初度の潮、二度目には猶又高き山のごとき
もの出て、さて流れしを見るより、助け船をこぎ出して仁井
より助けしとなり。〽又上のかやへは九度潮入りしが、中に
つよく入りし時、遙かに干潟と成りしときは、海底によし・
あしの如きもの生ひ繁りてあるまで見えしとなり
○雨降り、少々寒し。貞右衛門大小鯛弐枚を進物にす
又思ひ出せしまゝに、こゝに記す。十一月四日の震りも、
いとゞ長かれど、五日程に震はざれば、おもひいたま(ママ)ざり
しが、後聞くは、此の時の潮の込み引きに、孕渡合のヤヨ
は流れけるとぞ。さて種崎のみぞ、袖の洲のきはに杭立て
船に繫しが、此の船々は流れけるとなむ。かつら浜の山の
こしとを、潮南より打越して潮来れるとぞ。中洲の潮干た
る所より潮吹き出し候事、弐間程も上に揚りしとなり。是
は五日の事なり。此の日大いに難義せしは、山内下総・寺
村主水・生駒伊之助・林源五郎・真辺十郎右衛門・生駒
某・行宗春意なり。御用人類にもこれありとなり。下総は
あほふ堀、免狩もとりの船中、主水・伊之助は下田川十市
浜に打し帰り、源五郎は父子網打ちの帰捧(ママ)なり。此の外は
いつれも渡合より外なりとぞ
尚あるべけれど未だ聞く事なし。下総は高橋へ来りしが、
大火につき朝倉町を走り帰りしとなり。中にもあやうか
りしは主水伊之助なり。
廿五日 雨 波高し、八ツ頃より雨止み、夜又雨降る。震
ふ。重蔵来る
廿六日 雨、八ツ頃より晴に成る 九ツ過ぎ少々つよく震
ふ。久八孫病気にて、一寸行〔本ノママ〕(原注)き度き由申し出で候。帰り来
り、〔本ノママ〕(原注)数々あしきよし
廿七日 陰 今朝は長く少しつよく震ふ。久八今日もいと
ま。震二・三度。晴に成り暖和。御飛脚着す。七日より十二
日までの状来る
廿八日、陰 御飛脚立ち壱通。御旅中までの状、林え頼
み、夫々返答に及ぶ事。御道割、林源吾方より申し来り、写
し留め、本紙遣はす。昼の震程強し。夜、風雨上じけなり
廿九日、朝六ツ前の震又強し。昨夕浪声甚だ高し。今日は
少しやむ。昨日東長屋柱立ていたし候事。□〔敬カ〕(原注)吾来る。孫次郎
妻相続なり。姥来り、漸終に成る。夜、震ひ又強し
地震心得方の事
○平常家作すとも、家〔本ノママ〕(原注)をもけて、上下の小家たつるほどの地
を兼て明け置く事
○汐入りて菜園物なし
○平常味噌は三年を遣ふべし ○香物同じ
○醬油は作るべき事 ○油用意あるべき事
○草履 ○蠟そく 此品々にて物少し
○はん(ママ)どはそこせまきはやくなし。かやりはやし(抹消カ)
○塩当時なし ○堅魚節用意あるべし
○ふき稿(藁カ)なし、早く用意すべし ○大工なし、同じ
○繩なし ○井戸の水濁れば油断ならず
○汐の込み引きくるふなり。大いに恐るべし此のくるひには
震強くして汐入なり
○岩山は恐るべし
○下岩だけつよき石地は震ひ少くさけず
○くぎは早く、大みにて調ふなり
○竹藪も川近きは寒し
○板を敷き、其の上に畳を敷くがよし、さけてもくるしから
ず
○船を門前に早くつなぐべし。汐入り来りし時の為なり
○扶持米は年中に用意。別に十石余用意あるべきなり
○くるひし家を其の儘おし直したるは、二度の震ひには必ず
元よりくるふなり。屋根をはぎ、壁を落し、〆直すべし
○塩鯨・干物等は用意あるべき事
○幕は出安き所に置くべし。屋敷の塀に等いたみたるに張る
なり。又我小高山に行きし時、幕出さずして、尋ね来れる
者まどふ事ありし也
○竹の性よき時に、くはんぜよりにてあみ、長壱間に横壱間
のを十四枚も用意して、紙にて張り、つよく渋を年々ひき
て置くべし。かこひ屋根になるべし
小高山にて入用に成りし品々
○茶わん十四・五 ○汁わん十四・五 ○茶
○はし一束 ○めしつぎ
○はがま ○なべ ○どひん ○しやくし
○具ざくし
○さら七・八 ○かんどくり ○ちよく ○火ばし ○付木
○火鉢 ○からすみ ○塩 ○醬油 ○酸 ○丼二ツ・三ツ
○梅漬 ○みそ ○香のもの ○せき筆 ○薬
○ちようちん
○らふそく ○紙 ○草履 ○傘 ○木履 ○駕籠
右さいびつ・合羽駕籠等の用意すべし。
○外に水田子ひしやく等も入るものなり。又ほふちよふ
○座敷を出る時、火鉢は取りて出すべし。こたつの火も消す
べし
○井戸の水ひるものなり。大地震は火事あるものなり。消し
人なきものなり。火事装束は入用なり。家来も同じ
○醬油は初めの程は三合、後五合ほどうるなり。油も同じ
○真魚は直安きものなり。ざこ類は高直なるものなり
○鰹節は二十、常に用意あるべし
惣ニ蔵の戸前明けがたきゆへ、平生其の心得専用なり
冬は至つて寒くして、老人は寒傷み、死する者多し
夏は暑気に堪えずして又死すべし。俄に不自由になれ
ば、一日・二日にぞさもあらめ、四・五日も経ては老若
とも大いに困るものなり
一大木の近きは、あやうしと聞きしが、今度大木のたをれし
事なし。既に網干木などははしら三尺足らず堀込みて、五
尋ばかりの長さなる松丸たを建てる物なるが、弐本とも其
の儘立ちをりしなり。
堀近く、川近く、地の底の和わらかなる処はあしきものな
り。
一大根菜等はふとらぬものなり。惣じて菜園物出来悪く、其
の心得第一にあるべき事。
一地震の時は高潮の入る事なれば、小高坂辺へ立ち退く事あ
るなり。其の時は早く百姓を呼び寄せて、わら木等の用意
申付け候て大工を雇はせ、ふきのかたへ声をかけて、以後
所を教へて小家を作らすべし。依つて小家の指図をあらは
す事なり。
見すべし(ママ)。すべて、ゆり三尺なれば、八十日をゆると言ふ
事なり。日記に有るごとく甚だ長く震ふものなり。又火事
もあり、又龍(ママ)もまひ、雨も降り、雪も降りつよく、風もふ
き、雷も鳴るものなり。かり小家は甚だあしく、此の度な
ども、百五十年近く年を経し事なれば知る人なし。大和伊
勢等のごとく、一年に二度もある事もあるなれば、心ゆる
しがたし。よく〳〵覚悟すべし。此の度などは三度も五度
も小家作り直せし事なり。我は壱度にてすましたり。
かくの如くなれば、追々家に至りて震へば又此の小家に
来るべし。又せつちんも早々堀り立にこしらゆべし。
一瓦は上おもく甚だ悪し。そぎ[吉|よ]し。されども、風呂屋・釜
屋は瓦ならでは火あやうし。成るたけ、ひき(ママ)く立つべし。
さて、むかへ柱は入るべし。
一蔵はうしなきがよし。内板を打ち、丈夫なるせり木を上下
ともに入れ、又真中へまぎるとも、むな木を押ゆる堀立柱
を、如何にも丈夫なるを立つべし。壁はしとみにて包むよ
し、腰かはらはあし。
一震ひの強き時は潮の込み引きによる潮高く、荒ければ強
し。又天色・雲行き近く見ゆればゆるものなり。震動はや
まぬよしと言ふ。大震には何事なき様に、初めの程は震ひ
出して次第々々に強く成り、幾度も震ふものなり。家など
もかやらずしてつへ込むものなり。つりたる棚、又は戸袋
等は飛ぶなり。大てい大木の枝地につくまでもふるふな
り
少将様より書きてはるべしとて下され候由にて、軍馬持参の
歌が家の間毎に
棟八ツ門は九ツ戸はひとつ
みはいさなぎの中にこそあれ
文字かくの如く書きてあり。此の通り書きてはりぬ。又あ
る人の菅公の御詠とてもて来ぬ
ゆるぐともよもやぬけまじ要石、かしまの神のあらんか
ぎりは
此の歌、よもやとある、ぬけまじとあるなど、神詠とはお
もひえず。いかでかぬけんなどあらば、今夕はなどかしこ
くもおもひつゝくるになん
一蚊屋は冬といへども、二つばかりは用意なすべし。夜具と
ともに出し置くべし。地震火災等の時、何くれと入れて持
ありくに、袋のかはりとなりてよきものなり。
此の如く
二間ばりにして
かもひもしきも
入れずして
通はし、柱は
三尺ほり込み、
はりの上へ追々
は天非を張るべし、
のきづけは穴ヘ
シュロ繩を通す
べし
柱共五本なり
一さいひつ・ござ長持・合羽駕籠・此の三品何かと入れても
ち行くによきものなり。平生其の心して用意すべし
一伊賀の国の者、十一月地震の時来合わせ、さて是が咄し
に、祖父地震の記あり、何尺のゆりと言ふ事書きたり。木
などのゆるを心をおちつけて見る時は、大様に分るものな
り。大地震には廻国にて度々あひぬ。一年にも四尺ばかり
のゆりに逢ひしが、此の二月伊勢にて逢ひ候〔しか〕(原注)は、五尺のゆ
りにてありしなり。此の国のゆりは八尺のゆりなりと語り
しとなり。さて、三尺のゆりなれば、後八十日は強弱のゆ
りあるものなりと祖父が書きし記にありと言ひしとぞ。た
しか成る語なり
宝永の大地震の記、きら川の八幡の宮に有りて、文政の初
め見出して写したるとて、真辺栄三郎田野詰の時、取り来
りしを見しが、是は此の度のゆりより今一きは強きやうに
覚ゆる書きさまなり。十月四日の震に翌年の八・九月まで
軽重のゆりありしとなれば、壱丈余も震ひしか
一大地震には天近く、星など近く見ゆる事あるものとなん。
近く見ゆる時は油断ならぬものなりと交合雑記にも所見あ
る事なり。此の度も初めこそしらず、数日、天色星又雲も
近くありしなり
一晴雨は古人の言ひならはしたる事これあり。大様は天一天
上・八せん・十方くれ・子丑・庚申・つち・月かはり・土
用等にてたがはぬ物なるが、此の五、六、七年は、いろ
〳〵とたがひし事のありしこそ、不思議なりし事どもな
り
一うどんや某浦の町人にて福富の者なり此の老人、日々沖のはえに行き
て、汐を見る事怠らざりしが、此の度の地震の前、汐思ひ
の外濁り且くるひたりとて、大いに驚きて、家財を山の上
にはこばせけるが、よく日の地震に汐入りて家流れしに、
此のうどんやは何一つ流されずして、此の難をのがれしと
ぞ。心得に成る事なり
○一十一月五日、大地震。上川原にて角力
若殿様にも御出なり。震ひ出ると、御さじきよりおろし奉
る。此の時の危き事たとゆるに物なし。一同にさわぎし
が、佐々孫之進は日頃さしてもなき男なるが御附きなり、御扈従場御馬
廻りなり折から支度してをれるに、其の儘御棧敷にはせ登り
て、御畳を二・三取りてなげおろしければ、其の上へおろ
し奉りしとなり。人の守はかゝる処にてよく分かるものな
り
一少将様御扈従松井次平・渡辺嘉八郎は五日に出勤せず、次
平は翌六日痛所の躰達せしとぞ。是は同勤松下に居て、門
前の田に土足を少しつきしとなり。嘉八郎はかけ戻り家内
を連出して北在へ立のかせしとなり。嘉八郎が親も親な
り、又其の身は言ふにも及ばぬ男なり。不日退けられしな
り。寺村軍馬は当番なりしが、衣服きかへの最中にて、八
丈の小袖にて御奥のごとくかけ込みかけ、[風|ふ]と心つきて、
袴の紐しむる〳〵かけこみしとなり。川田務は袴の腰ねじ
れながら、只西へかけ行き、御堀〔本ノママ〕(原注)縁の石橋をこし、三度か
やりしが、三度目にわれに手をひぢまでつき込み、心付き
て見れば、武藤の角にてすさまじきわれ故引かへし、本町
通に御屋敷へかけ入り、御奥内へ刀をもぬかず行きかゝり
てぬき置きしとぞ。大塚藤六は大橋にて妻の弟西山亀治と
同じく帰りし故、袴の事頼み、其の儘はかまなしにて御屋
敷へかけ込みしとなり。此の日は 少将様新築の御門え成
らせられ、八ツ過ぎ御帰座なれば、御供の面々は御供し
て、番ならぬは同勤なれば道なるが故、松下庄馬方にて酒
などのみをりしとなり。御家老は夜に入りて御機嫌伺に出
とぞ、おくれたる事どもなり。御仕置大御目附どもの側の
役人は二の御丸へ出しこそ大いに□へし出さまとて人の
笑ひのたすけせし事どもなり。小八木貞之助壱人御屋敷へ
出、少将様の御機嫌伺ひ奉りて、さて二の御丸へ出て其の
事言ひしより、みな心付きしとぞ。平生守なきの心はかゝ
る時顕はれ行く物にこそ。二孫達枝は新馬場にて 少将様
を気遣ひ奉り、落涙数行に及びしなり。渡辺嘉八郎を笑ふ
のみにして、此の 二の御丸へ出て 少将様へ出でざりし
人々を笑はぬは、いかが成る代のさまにや。此の度の退け
られしは此の両人、松井次平・渡辺嘉八郎なり。士の覚悟
なきは商人の算を知らず、漁師の船に酔ふがごとくあさま
しきものにこそ。尚此の上にも村田をはじめとして又覚悟
なきは、この者どもなり。いづれか重役と重んじ伏すべき
一津波は入るものにあらずと言ふは、北よりの国といへど
も、むかし陸奥の北おもてにも入りし事あり。又平生のご
とく、うち入る物にあらず、山のごとく高くなりて入るも
のなり。土佐一国にてさへ高ひく大いにありしなり。慶
長・宝永も同じ事なり。平常のごとく海浜の波うたず、沖
高くは静かなるものなりとぞ。此の度沖も六・七日は波う
たで、ゆた〳〵としたるものなり。此の時は震も強く、度
数も多く震ふものなり。波打ち出づれば、甚だよき事なり
とぞ。一日に幾度となく潮の込み引きありて、定まらずし
て震ふものなり。波うち出でても、此のくるひはある事な
り。雨降れば、おさまると聞きしが、大雨中にも強く震ひ
し事あり。又北山の上に日のごときもの出でし事もあり、
星大いに飛びし事もあり、きものひゆる事多し。宝永の震
りは重陽にかたびらをゆるされしと聞く。今度はさもあら
ざりし。されども、今おもへば、かはりし事四五年前より
有りし事なり
一大工百姓大勢来る。味噌大いに入れ込みしなり。此の時糀
をみそたくほど取り寄せ、塩を合わせ、又寒の水をも取り
置きて、春、暖気に成りて、此の水と寒中糀にて味噌は焚
きしなり。心得おくべき事なり
一鳴りて後、震来るは震強からず。初めかすかにて、次第に
強く震ひ出る時は長く強し。宝永のはさもなかりし様子な
り
一三月もふさふ竹の子出る時、早ま竹の子出ぬかつら浜なり
一堀部五左衛門御船奉行なり。十一月四日潮大いにくるひし
となり、言上をす。五日大震、御座船を乗入る事もせず、
おのれのみ家内と小船に取乗り、潮に任せ逃て、西の窪に
て通用丸に乗りしなり。此の時の危き事甚だし。御船奉行
は何の為〔本ノママ〕(原注)ぞ結党の者なれとにくむべき力らもなく、笑ふに
絶えたり。愚なる哉
一六月十四日の朝迄も尚震ふ。此の時も余程強し。又潮のく
るひも度々なり。未だ地盤の通りにならず
壱万五千弐百五拾軒 居り家
内弐千五拾六軒 焼失
三千百六拾五軒 流失
弐千三百五拾弐軒 潰家
三千七百五拾壱軒 半潰
三千六百九拾軒 大破小破共
弐百卅七軒 汐入ニ相成
四千弐百廿壱軒
八百三軒 蔵・納家焼失
四百六軒 右同流失
七百九拾五軒 蔵・納屋・長屋の類潰半潰共
千四拾壱軒 土蔵・納家・雪隠共同断
六百七拾弐軒 土蔵・長屋・納家・部屋満藤
厩共大小傷汐入等に相成分
四百七軒 雪隠半潰潰流失に相成分
九拾七軒 右同大傷汐入共
三百四拾弐軒 □
百弐軒 居家流失
百四拾八軒 右同潰半潰共
三十軒 納家流失
二十七軒 右同潰半潰共
弐 軒 居家傷み
弐拾三軒 右同納家・雪隠潰半潰共
一人数四百拾弐人 死人并行衛不知・怪我人共
右の内
弐百二十七人 死人
壱人僧 六拾弐人男 八拾壱人女
弐拾四人 五拾九人 男女訳分らず
百八人 行衛知らず
内 四拾壱人男 六拾五人女
弐人男女知れず
七拾七人 過チ人
弐拾人男 四拾人女 拾七人男女訳不知
一牛馬三拾八疋 死失行衛不知共
一地八千六百七拾五石四斗七升六合也
本田新田共損田汐入ニ相成分
外に過半汐入とあり 潮江村、田地汐入と有り 下地
村、残らず汐入りとあり 高須村
(
千弐百壱ケ所御普請所傷みに相成場所
九百五拾四間半
外に潮成りに付破損未だ分らず
幡多郡伊田浦
(
八拾八ケ所と
八百弐拾五間
田役所右同
(
五ケ所と
六間 新田囲并に堤溝台右同
一橋四拾ケ所 焼失破損流失共
一井流四拾九艘
内三艘流失 四拾六艘破損傷共
一筧一艘流失 一崩廿五ケ所 御留山地下山共
一御台場拾壱ケ所流失傷共
一狼煙場壱ケ所 崩傷
一遠見場壱ケ所 傷 一御備筒拾挺 流失
一船引場弐ケ所 傷 一御船十九艘(流失焼失破損傷み共
外甲浦御関残らず傷とあり
同所赤ぬり小早御船倉建ながら余程流れ出で、御船傷み
いまだ相分り申さずとあり
一船四百六拾三艘 廻船小舟まで流失破損相成分
一網百弐拾六張 諸網流失に相成分
御口銀
(
銀弐拾八貫三百六拾三匁
御役手銀
金弐百両 御国産方之分流失焼失
内
三拾九両弐歩弐朱流失
四百七拾七両弐朱焼失
一八銭(ママ)壱貫百弐匁五分 流失
(書込)
(欄外書込)
「財材有イカガ」
外家財并漁具等夥しく流失となる□□下仕の字脱
幡多郡 小歳(才)角(カ)浦本ノママ(原注)
一籾子八百三石弐斗
内
千十一石弐斗 流失
七百九拾弐石 焼失
一米五千四百八拾六石三斗壱升
内
五千三百六拾弐石四斗五升 焼失
百弐拾三石八斗六升 流失
一糯米百五拾弐石 焼失
一大豆九百三拾石七斗五升
内 九百廿三石四斗五升 右同
七石三斗 流失
一菜種百三拾石 焼失
一燈油弐百挺 同
一麦五百八拾八石九斗 焼失流失
一小豆七拾弐石七斗五升 同
一黒大豆壱石八斗 同
一そば三石七斗 同
一
ヱンカ
不知
豆 三石弐斗 同
一空大豆四石 同
一胡摩 四斗 同
一五形花種壱石
一甘蔗千三百抱 流失
一同壱万六千八百貫 同
右の外
一神社廿三社 潰半潰 流失 焼失共
一社家拾軒 潰半潰 汐入流失
一諸堂拾壱宇 潰半潰 流失
一寺院四拾弐宇 潰半潰 流失 焼失
一部屋五軒 潰 一納家五軒 潰流失
一物置三軒 同 一田地破損六ケ所
内 弐ケ所社領
汐入
四ケ所寺領
内弐所汐入弐所流失
右御仕置方より借写とあり
武藤善右衛門ヨリ送レル書取
崎浜村談議所蓮華寺大日寺住僧権大僧都阿著利暁印ガ寺録、
(注、宝永地震の項にあるため省略)
末世考フベキ事
一宝永四丁亥年十月四日、晴天豊カニシテ、午ノ一天大地
震。大地割レ、家コワレテ打殺サレ、或ハ大土内ニ入リテ
死ス。婦人目舞死、又ハ高山下ニ住居、山崩レ死スルモノ
モアリ。然ルトコロ、同日未ノ刻ニ俄ニ磯ヨリ沖エ三町余
モ[干|ヒ]、其ノママ大潮入リ、家・財宝悉ク流失。怠慢成ル者
又ハ不達成ル〔本ノママ〕(原注)モノ、或ハ山遠ク者其ノ残ラズ大潮ニ引取ラ
レ死ス
一高知近辺一平ノ大潮。石淵ヨリ城下マデ大道筋船ニテ往
来。船賃廿目宛
一浦戸御殿并種崎ノ御船倉、此ノ時流ル
一高知ヨリ下浦幡多郡海辺ハ残ラズ流失トアリ
一城下ヨリ東、安喜浦大イニ潮高ク、田野安田ハサシテ上ラ
ズ。奈半利・野根山、大道下二拾三反廻船打チ揚グ
一須川ヨリ東、野根浦マデノ内、潮高クアガラズ。甲浦残ラ
ズ流ル。夫ヨリ東、阿州地潮上ル由
一野根浦、尾僧新町并ニ船場前、浪打チギハヨリ一町半潮上
ル。最川筋四町余揚ル
一右同日ヨリ廿日頃マデ大潮入ルト申ス。尾僧夷町ノモノド
モ、後ノ一段高キ田へ小家作リ退ケリ。船場ノ者ドモ、山
ノ下高キ所、或ハ平野山上ル
○或ハ一二度ツゝユルオリ
一地震右四日ヨリ不得〔本ノママ〕止ミ、五年八・九月マデ昼夜軽重六・
七度
一死人千八百四十四人男女、一過人九百廿六人同
一潰家四千八百六十六軒、一流失家一万千四百七十軒
一破損家千七百四十二軒
〆江戸エ言上ノ趣
其ノ外米穀諸品損失、愚筆ニ記シ難シ。
一百四十年以前、慶長九甲辰年大地震、大潮、此ノ時ニモ当
地下エ潮入ラズ。当社〔本ノママ〕御八幡御神力ノ品々
作者 檜垣左近兵衛尉
筆者 檜垣新五兵衛
息 治堅
右書付当氏宮八幡宮ニコレアリテ、文政十三寅閏三月三日写
トアリ
右慶長九辰ヨリ百四十年トアリ。書写ノ誤ナルベシ。百四
年目ナリ。十ノ字衍ナルベシ。宝永四ヨリ此ノ度マデ百四
十八年目ナリ
武藤好晴ヨリ書送レルニ、慶長ノ記、此ノ外所見ナシト
ゾ。宝永ノ事ハ茂好、仁井田ニ見任ノ時所見多シ。専ラ御
船頭ノ家ニ有ルナリ
一此ノ度ノ地震ニ築山マデ出シ時、早ヤ下町焼亡、烟立チ、
夕方七ツ半頃ナルベシ。ヲサマル所六日ノ朝ナリ
御城下ノ分
種崎町
一家数百九拾一軒焼内
百七十五軒町人拾四軒他支配
一軒御町方引越己家
一潰家一軒
上ニ同
引越己屋
一御蔵二ケ所焼失
御町方義倉
御囲籾蔵共
一御役家一軒焼
御国産
役所
一堂一宇焼
一蔵并物置共八十一軒内
七十九ケ所町人
二ケ所他支配
一過死女三人内
一人町人
二人浦人
一怪我人男女五人町人
男一人
女四人
一橋二ケ所内
幡多倉橋焼
播磨屋橋半焼
一御囲籾七百石計焼失
一米八百十四石焼
一麦弐百五拾石同
一大豆二百七拾石同
一小豆拾石同
浦戸町
一家数百九拾九軒内
百七十六軒焼失内百三十軒町人
四十二軒他支配
一二拾三軒潰家町人
一寺三軒焼失
一社壱ケ所焼
一蔵并物置共七拾一ケ所内
四十八ケ所町人
廿三ケ所他支配
一蔵一ケ所半潰町人
一怪我人死男女三人内
一人男
二人女
一行方不知男一人町人
一焼死馬壱疋
一米百四拾五石六斗焼
一麦壱石弐斗同
一小豆十弐石同
一大豆四石八斗同
新市町
一家数五百七軒内
焼失家三百
七軒
内
二百六軒町人百軒他支配
一軒多賀不動院
一潰家百五拾六軒内
七十軒町人八
十六軒他支配
一半潰家四十四軒内
二十二軒町人
同他支配
一寺堂二軒焼 一寺堂三軒潰 一蔵并物置共百廿九ケ所焼
一怪我死男壱人町人
一怪我人男女二人内
一人町人
一人他支配
一拾壱ケ所焼新町下
一米百九拾九石焼
一大豆四拾四石同
一小豆弐拾石同
一麦拾石同
蓮池町
一家数二百八拾五軒内弐百卅四軒内
二百二十四軒町人
十軒他支配
一半焼壱軒町人
一潰家廿二軒内
十六軒町人
六軒他支配
一半潰家廿八軒町人
一焼失ノ社二社
一蔵并物置百八拾壱ケ所焼内
百七十九ケ所町人
二ケ所他支配
一潰蔵并物置四ケ所町(人)脱カ
一怪我死男女拾四人内
男二人女五人町人
女三人他支配
一怪我人男女廿一人内
二十人町人
一人他支配
一行方不知男女二人
一馬壱疋焼
一米弐千六拾八石焼
一大豆三百十八石同
一麦百六拾三石同
一白米百卅四石八斗同
一小豆拾五石六斗同
新市町
一家数三百五拾弐軒
内三百卅八軒町人
内拾三軒町人壱軒
伊勢御
師旅宿
一社二社焼
一蔵并物置共百九十三ケ所
内
百八拾四ケ所町人九ケ所他支配
一怪我死男女五十五人
内
四拾五人町人
二人男女他支配
内男十八人女廿七人
五人
男四人
女一人
三人出所不知
一行衛不知男一人町人
一橋二ケ所材木町上下
一馬壱疋焼
一米九百十七石同
一麦卅六石同
一大豆廿八石同
農人町
一家数四百七拾五軒
内焼失家三百廿九軒町人 同廿九軒他支配
一潰家百二拾九軒
内九拾七軒町人 卅二軒他支配
一半潰家十七軒
内十二軒町人 五軒他支配
一焼失蔵并物置共六拾三ケ所
内六拾ケ所町人 三ケ所他支配
一怪我死男拾四人
内拾二人町人男四人女八人 男一人他支配 女一人郷
一怪我人九人
内七人 男五人(ママ)、女七人、二人他支配
一橋一ケ所
一馬二疋焼
一米三百廿三石同
一白米十七石二斗同
一大豆二百六石四斗同
一小豆十石四斗同
一麦十四石同
一黒大豆一石八斗同
一蕎麦〔本ノママ〕三石六斗同
一ヱン豆三石二斗同
一空豆四石同
一胡麻四斗同
一五彩花種壱石同
細工町
一家数八拾壱軒 焼失七拾七軒
内七拾三軒 町人、四軒他支配
一半潰家四軒
内三軒町人 壱軒他支配
一焼失蔵并物置共弐拾五ケ所
内廿三ケ所町人 二ケ所他支配
一怪我死男女三人
内壱人男 壱人女町人 壱人男郷人
一米五拾五石六斗焼
一大豆廿四石焼
一菜種百卅石同
一燈油弐百丁同
廿代町
一家数百六拾三軒 内焼失百卅九軒
内百拾壱軒町人 廿七軒他支配 壱軒
多聞院
旅宿
一潰家拾九軒
内拾六軒町人 三軒他支配
一半潰家四軒
内弐軒町人 二軒他支配
一焼失堂壱宇
一焼失蔵并物置四拾三ケ所
内拾弐ケ所町人 拾七ケ所他支配
一潰蔵家并物置八ケ所
内五ケ所町人 三ケ所他支配
一半潰社壱ケ所
一焼死人壱人町人
一怪我死女四人
内三人町人 一人他支配
一米九石焼
一大豆八石同
朝倉町
一家数三百十九軒
内焼失家七拾二軒
内六拾八軒町人 四軒他支配
一潰家九拾六軒
内八拾二軒町人 拾四軒他支配
一半潰家百五拾壱軒
内百卅四軒町人 拾七軒他支配
一焼失蔵并物置共拾壱ケ所
内拾三ケ所町人 六ケ所他支配
一怪我死男女三人町人
内壱人男弐人女
一焼失米九拾五石
掛川町
一家数四拾四軒
内潰家三拾六軒
内三十四軒町人 六軒(ママ)他支配
一半潰家八軒町人
一怪我死 男女弐人
内壱人女町人 壱人男郷人
唐人町
一家数四拾四軒
内潰家廿五軒
内拾四軒町人 拾壱軒他支配
一半潰家拾九軒
内拾四軒町人 五軒他支配
一潰蔵并物置拾七ケ所町人
一半潰物置五ケ所町人
境 町
一家数拾三軒
内潰家八軒 半潰家五軒町人
一潰蔵并物置四ケ所同
一半潰蔵并物置三ケ所同
一怪我死 女壱人
水通町
一家数四拾七軒
内潰家三拾壱軒
内卅軒町人 壱軒他支配
一半潰家拾六軒
内拾五軒町人 壱軒他支配
一潰蔵并物置廿六ケ所
内拾ケ所町人 六ケ所他支配
一怪我死 男壱人町人
北奉公人町ハ同支配ニ付此ノ分ニ入ル
本丁
一家数八軒潰家町人
一潰蔵并物置共廿三ケ所
内二十ケ所町人 三ケ所他支配
一怪我死 男壱人町人
合家弐千七百五拾五軒
右之内千八百七拾六軒焼失
内千六百廿九軒町人 二百四拾軒他支配
二軒半焼
内壱軒町人 同他支配
五百六拾八軒潰
内四百拾壱軒町人 百五拾七軒他支配
三百九軒半潰
内弐百五拾四軒町人 六拾五軒他支配
八百壱軒蔵并物置焼失
内六百六拾八軒町人 百卅軒他支配
一百弐拾ケ所潰家并物置共
内九十ケ所町人 廿四ケ所他支配 九ケ所半潰蔵并物置
一焼失〔死カ〕男一人 怪我死男女百五人
内九拾四人町人并郷人 四十人男、五拾六人
女八人内男三人 女五人他支配
三人出所不知
怪我人男女卅九人
行方不知男女五人 町人男三人 女二人
一焼死馬 五疋
一焼失堂社 拾二ケ所
一潰寺半潰社 四ケ所
一御蔵 二ケ所焼
一役家 一ケ所同
一橋 七ケ所同
一壱ケ所半焼橋
一焼失米四千六百二拾六石弐斗
一大豆九百三石二斗
一菜種三石二斗
一燈油弐百丁
一小豆七拾七石六斗
一麦四百七拾石二斗
一白米百五拾弐石
一黒大豆壱石八斗
一蕎麦三石六斗
一エントウ三石二斗
一胡麻四斗
一五形種壱石
右一帖御町方へ届出候縮メ書キナリ。猶此ノ余、格式被リ
候面々怪我死等ノ儀コレアリ候テモ病死ノ届ナレバ相分ラ
ズ
一幡多郡十一月五日大地震ニツキ焼失潮入リ等ニ相成リ、村
浦破損ノ廉并ニ死人等左ノ通リ
一御普請所九拾二ケ所 一同八ケ所 一同台場五ケ所
一地千六百九拾八石七斗余 本田新田領知
一潰家八百五拾五軒
一半潰七百卅六軒
一流家七拾七軒
其ノ余潮入七ケ所同様流家
一焼失家七拾四軒
一流失船四拾艘
一網二十三帳
一死失男女六拾人
一馬四疋流
一潰堂宇寺三ケ所
内壱宇堂二宇寺
一井流二ケ所
一流失家四拾九軒
餓死人へ御己家(屋)入御救米出ル。
右幡多ノ分シカト分ラズト見エタリ
諸家御届ノ書左ノ如シ
(注、すべて他出あるため省略)
太守様此ノ度江戸ニ於イテ、御[直|ジキ]々ニ渡シ遣ハシ候御自筆
左ノゴトシ。尤モ御国ニ於イテモ御呼立テニテ仰セ聞カサ
レ候コト
一先日、国許大地震ニツキ、此ノママ因循致シ居リ候ハバ国
家累卵ノ危キニ至ルベク、因ツテ御暇ノ義願ヒ置キ候故、
帰国ノ上、[吃度|キツト]省略致スベシ。去リナガラ、今、天下ノ形
勢、文武ヲ以ツテ士気ヲ培養致シ候儀一日モ廃レガタク、
然レバ手許ハジメ冗費ヲ省キ、イヅレモ非常ノ覚悟肝要ニ
存ジ候 以上
十一月廿六日
右御書、同廿七日御侍一同御呼出シノ上拝見、コレヲ仰
セツケラル
先君靖徳院君ノ御書ニカクノ如キ御文章ナシ。申スモ恐
レ多クハアレドモ
[因循累卵方今形勢培養冗費|インジュンケイランホウコンケウセイバイヨウジヨウヒ]穴ヘモノヲ入ルゝヤウナコト
右等ノ御文章ハ如何ト人ノ申シ侍ラシテ、アナカシコ
一同姓渋谷亀六、早追御使者ニ来テ、東海道ノ宿々ノ咄シト
テ、タシカ成ルベキ事ヲ我ニ語リシ
一伊勢内外ノ宮、六月・十一月二度ノ大地震ニ少シモフルハ
ズ。近辺マデモフルハザリシトナリ
一尾張八剣ノ官、高潮来リシ時、御宮近クニテ突キカヘス如
ク高潮退キシトナリ。此ノ二ケ条亀六話
一土佐狭島初メノ高潮ハ打コシヌ。其ノ跡燈五ツバカリ明ラ
カニ見ヱシガ、二度ノ波ハ東西ニ分レ、二度潮〔本ノママ〕カカラズト
ゾ一剣王山〔本ノママ〕ニ潮カカリシ時、東西へ分レテ浦戸ノ方へノ潮来ル
コト少ナカリシトナリ。
(上部欄外書込)
「金毘羅山ナリ」
一安芸宮島、潮入ラズトゾ
一潮江天満宮楼門マデモ傷ミナシ。廿代神明宮ノ御本世、三
度マデ火カカリタレドモ、打チケスヤウニ消エシトナリ。
火、御宮近ク来タリシ時、風払ヒシトナリ。御宮ノ下ニ船
ニ乗リテ居リシ者、ゲンニ御神威ノ新ラタカナルヲ見シト
ナリ菊地源吉姉、此ノ時加藤ニ奉公セシナリ
一堺住吉ノ社ニ高潮ノ時、山ノ如キ高サニテ潮来タリシニ、
未ダ御宮ニカカラヌ中、双方へ引キサク如クニテ、御社地
ヘハ入ラザリシトナリ。神威カクノゴトシ
一大坂御屋敷内ヘハ汐入ラズ。大船来タリテ潮ヲトドメシ有
様ナリシトヤ。此ノ二条、橋本伊曾江帰リ来タリ直談聞ク
ナリ。大坂在役。又伊勢ノ震ハザリシ事ヲモ、伊曾江モ此
ノ時、咄セシナリ
一大和国春日ノ御社モ二度トモ傷ミナシトゾ
一御国中ニモ社ニハ不思議ナル事ドモアリシコト多シ。サレ
ドモ、伊勢ト尾張、住吉ノゴトキハアラズ
一正月十一日ノ御規式、地震イマダヲサマラネバ、指シ延べ
ラレ、二月七日、御名代仰セツケラルナリ。其ノ外御免
一御責馬モ御馬役名上ノ二人ニ仰セツケラルナリ。御馭初メ
ハ御家老中初メ御免ナリ。五日ナリ
一卯三月十五日、早々ヨリ海辺潮大イニ高シ。南川橋ノ下ヨ
リ瀬ナシ。カンベ〔本ノママ〕ニテ飯。弥右衛門汐田ノキレ所ヨリ丑之
助御別荘ニテ関留メ。ソレマデ一円ノ海。ボラ・イナ飛ブ
コト甚ダシ。網ニハ不〔本ノママ〕魚入ラズ。左衛門汐田モ田辺島人家
マデ一円ノ大海。タルミ・葛島・介良・大津マデ又大海。
往来油屋堤ミヨリ高須山通リナリ。下地南北トモ新町マデ
海。少将様御川所々ノ切所アリ。御殿柱ノ四尺程汐ニツカ
リ見ルニ涙シキリニ落ツル。ボラ・イナ・サヱリ飛ブコト
甚ダシ。竹島マデ海。呑海亭傷ミナシ。吸江庵所々傷ム。
往来道汐ナリ。八助・五郎右衛門モ海。吸江漁師ノ家傷ミ少ナシ。道ハ汐山通リナリ。十津傷ミナシ。下田内切レア
リ。小船方堤ミ大傷ミ。夕方ノ汐、新田ノ堤ヲ越ユル。惣
ジテ魚ハ田ニ多シ。海底ハ、イヅクモ島ノゴトクサケタル
見ユ。左衛門二・三ケ所、弥右衛門三・四ケ所、御(ママ)四・五
ケ所ニテ大傷。ウチ堤ミモ一・二ケ所、五郎右衛門一・二
ケ所、下田内二・三ケ所モ、スガタハ残ラズト云フ。切レ
所右ノ如ク、浜ノモノ上、地引網、根コギ木等ミゾ筋ニモ
多クシテ、投網大イニイタム