[未校訂]安政の大地震
一八五四年(安政元)に地震があり、人々を不安のどん底に
おとし入れていたが、翌年一一月ついに大地震となったので
ある。地震は天地をゆさぶる如く鳴動し、あるいは息をする
ように小きざみに震え続けて七日七夜に及んだ。住民は色を
失ない天地に祈って、竹やぶに逃れて日夜をあかしたとい
う。
もちろん、この地震は津波をも誘発したのである。実際の災
害はこの方が苛烈なきずあとを残したことであろう。七日七
夜の震えのあと起こった強大な地震。そしてそれに起因した
この大津波は、城辺町の海岸をなめつくしたのである。特に
奥深く入りくんだ深浦湾内の垣内、岩水、それに、満倉に至
っては水位がふくれ上がり、満倉川の河口である現在の満倉
橋から五〇〇メートル以上の上流まで海水が逆上し、潮のひ
いた山間に多くの漁船が打ちあげられているありさまは見る
もみじめであったろう。自然の脅威の前に当時の人々は、お
それおののいたことであろうが、死者のなかったことは不幸
中の幸である。
5 嘉永の地震と郷土城辺の記録
一八五五年(安政二)大地震・大つなみが起こり、深浦・久
良は大惨害を受けた。中には新築の家が傾き、竹やぶのささ
の先が地面にとどくまでゆれた。波が屋根まで来て家が多く
さらわれた。(二宮家文書)
『嘉永七甲寅大地震記録』
(注、〔一本松町史〕と同文につき省略)