[未校訂]2 地震・津波
幕末のころも各種の災害は相次いだ。なかでも嘉永七年(一
八五四安政元年)一一月、この地方を襲った地震は激しく言
語に絶するものがあった。
その記録が、本町正木蕨岡家に残っている。
嘉永七申寅大地震記録
「一一月五日、朝少し西風天気吉、申の下刻大地震となり
動きがきて半時酉の上刻より夜中まで十四五度もゆるぐ。
広庭に於て夜を明かし、明る六日には昼夜折々振動、七日
朝雨模様となり少々降り巳刻頃また大ゆれが始まる。ゆり
が少し細くなりたる頃、銘々小屋掛いたし、小屋住居にい
る。川水濁り井の水切れ大石落つ
海辺は津波来り外海浦の内、深浦、岩水、平城村貝塚、満
倉などに流家これあり、新田分も残らず海に相成り大破、
和口村の出合迄汐流る。人の損毛深浦の者舟中に百壱人相
果つ、土州宿毛町家数軒動き流れ人の損も多し。廿四日を
頂上に日々震動、日々雨模様に相成り強雨雷鳴廿五日出入
それより震動少く遠く相成候得共年明けても折々震動仕事
相止め難く卯正月七日夜雨降り大雷荒れ相絶候
安政二乙卯四月 蕨岡重賢
(蕨岡文書)
この記録によると地震は一ケ月余にわたり、大小こもごも起
ったようである。特に津波の被害はひどく深浦では一〇一人
も遭難者が出、宿毛でも家が数軒流れ、人も死んだというこ
とがわかる。
古老の話によると、本町でもこのとき広見の田中家では新築
の家が傾き、中川の大又では地のゆれがひどいとき大勢が竹
藪に逃げこみ、中には七日間もそこから出なかったものもあ
るという。(岩村トク談)