[未校訂]江戸時代には、慶長九年(一六〇四)宝永二年(一七〇五)
宝永四年(一七〇七)寛政元年(一七八九)の大地震があ
り。嘉永七年(一八五四)(安政元年と改元)十一月四、五日
に大震、同月十一、十五、二十五日、十二月十二、十四日と
強震があり、その間余震が続いた。これについて、蜂須賀家
記には「封内の人家倒るるもの三千余、人畜多く死す」とあ
る。これを安政の大地震という。この地震について、三好郡
志には次のような記事がある。(昼間村の伊勢吉の孫大西貞
平氏の談)
安政の大地震 天保の飢饉に次いで、人心を恟々たらしめた
のは安政元年の大地震であつた。其震始は、嘉永七年十一月
四日の朝早々で、最初は少々震り出したが、五日の七ツ時に
は大震となり、其夜五ツ半(午後九時)頃に前代未聞の大震
となつた。其翌月十三日には不祥を忌んで安政と改元なつた
がまだ震り止まらず。皆々は籔或は山と思い思いに家に居つ
たものはなかつた。(中略)其年の大晦日にはようよう震り
止つたが、其間は何時も四、五日振には大震り小震りがあつ
たという。(中略)この大地震ではどこの村でも家の中には
人は居らず外に出て、籔に小屋掛連日野宿をした云々。
○池田の安宅喜市(大正十年七十六歳)翁の話
「この大地震のとき加茂の山根の車屋へ雇はれて車を拵へ
にきて居た、拵へた車の道具や材木を縦に立てかけておい
たら、俄に揺り出して、残らず倒れたのがそもそもで、そ
れから毎日揺つて仕事が出来ませんので、帰る道々には其
処にも此処にも野宿ばかりで、興聖寺の裏の磧へ来て見た
ら、磧の石が飛び合いまして、火が出て帰れませんので、
渡船で一夜明かして帰つて見れば、孰れも同じ野宿の小屋
掛ばかりでした。云々」。