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項目 内容
ID J1900341
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔日野谷村史〕○徳島県田所市太著・那賀郡日野谷村役場発行
本文
[未校訂]大きな地震
阿波国内に起つた地震で吉野朝廷以来に起つた大きなものを
調べて見ると太平記其他の文書に見えたる処古人が巌や建碑
に刻つて遺した処では今から五百六十五年昔海部郡由岐浦の
地が裂けて長弐百弐拾歩其径百歩の大きな池となつたと太平
記に見えて居る後光厳院康安元年(正朝後村上天皇正年廿年)
の大地震海部郡鞆浦の巨岩に見えたる貞治二年(貞治元年は
武家方康安元年より二年後吉野朝廷正平廿二年皆同帝同院)
次は東由岐浦大池にある碑文に見えたる康暦二年庚申霜月の
大地震(康暦は後円融院の年号其二年は吉野朝廷後亀山天授
六年)で今から五百四十六年昔の大地震徳川時代に入つては
貞治二年の地震と共に鞆浦の巨岩に刻られた慶長九年と宍喰
浦が全滅して鞆浦が一大惨状を呈したといふ宝永四年の地震
下つて寛政元年の大地震以上は孰れも本村内が関係して居ら
んものではないが知つたるものゝあるべき筈でない然るに安
政元年の大地震となつてはだん〳〵知つたる古老がある之は
未だ嘉永が改元なつて居らん同暦七年霜月四日を始めに震動
仕出したもので蔭谷の村上竹蔵翁は八拾歳の高齢で能く往時
を記憶して又能く語る同翁の話に依れば、
私は弘化三年の生れで地震の時には丁度十ヲの子供であり
ましたが霜月四日の朝四つ時(今の午前十時)揺出しまし
た地鳴抔は格段しませなんだが外へ出てゐた時に俄に揺出
しまして地震とは知りませず何うしたものかと恐ろしく家
の内へ駈込まうとしたがひよろ〳〵ひよろづいて歩けませ
ず遂にはころ〳〵転げましたが三つ位であつた妹おさだが
家の内から走つて来て「あんにや何しよるぞ」と起けうと
仕懸ける私に抱附きましたが夫れもころ〳〵転げ廻つて泣
出しました其時母も内から飛出て来て之もひよろづいて居
ましたがこけはしませなんだが内には居れんといふ処へ父
も出て来て「大きな地震じやのう」と母と話して居ました
何分子供の事で何べん揺つたか慥に存じませんが毎日々々
大ゆり小ゆりの仕続け通しで其年中はゆつたやうに思ひま
す山の木も地を摺り家の軒も土地に着くやうに見えて今に
もこけるかと思ひましたがこけはしませんが小便壺の小便
はざぶ〳〵さぶつきとう〴〵座敷へ飛込みました別に山や
籔へは逃げ行きませずに揺れば外へ出止めば内へ這入りま
したが山から石が転げ落ち庭の石でもころ〳〵ころげまし
た朴野へ渡る渡場も時々止つた位で奥向は山がつえた処が
だん〳〵ありましたが倒れた家もなければ火事もありませ
なんだが今になつても其時の事を思出しますと身が縮むや
うに思ひます云々。
とで此他の老男老女に聞いても大同小異で余り委しく話せた
向もなく話の仕舞はこはかつた恐ろしかつたといふのに一致
した是で当時の地震如何に烈しかつたかゞ想像せられる。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-2
ページ 1904
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 徳島
市区町村 日野谷【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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