[未校訂]㈡ 安政の大地震
1 安政の大地震は、近世に於ける顕著な地震である。本邦
に於て、史上大地震と称するものは三百六十有余回ある。安
政元年の地震は烈震の一つであり、そしてこの時南海地方大
いに震い、徳島市街の如きは破潰されたこと大で、幸い昼間
のことゝて人畜等の損傷は割合に少かつた。震後沿海地方は
大津波に襲われて、流失した家屋もあり、今日沖洲浦の高洲
と称する所は、この津波によつて生じた地であるという。上
佐那河内の長願寺に、城内の大書院の戸板の破片に岩本贅庵
が書いた扁額がある。徳島・小松島地方の被害が甚大であつ
たことがわかるので、贅庵の書を左に記すことにする。
地震屋頽人不安可嗟気化太裏残災及池魚生巨熖勢驚海若起
狂瀾茇舎月余猶跼蹐流民歳暁奈饑寒従比廟堂加戒懼中和位
育亦非雖
安政元年甲寅十一月五日地大震人家往々為之倒或雖広屋大
廈不免且海咲大発漁家蜑戸漂没者亦多矣加之徳島内坊及小
松島坊失火延焼数千戸復畏懼之余詩以記之当此時主君之邸
大書院亦倒於是以其戸破裂余板為扁額命復書其詩掲諸廊庶
以不後世使人勿忘可謂其為慮也遠矣夫若扁中有画竹而四廓
有疵瑕者皆存其旧也
外臣厳復謹識
大地震後書感 井上不鳴
鼈足蘆灰補得奇 女媧再見創霊基
誰知近日邦家勢 別有柱維非旧時
その感はまた面白く、この大震災に就いて奇談があるから
左に記そう。
2 亀磯は津田港口を東南に距る一里許の海中にある。往昔
は漁家が多かつたから、世人は御亀千軒と云つていた。文禄
三年八月六日、地異のため俄然海中に沈んだが、その時船で
逃れた人々が徳島市の安宅・大工島・福島および津田浦等に
居を定めて今日に至つている。すなわち福島の四所明神は、
この島の氏神で、八万村の潮見寺は御亀の菩提所であつたと
云う。
安政の大地震の前は、高く水上に現われていたが、今は全く
没して、干潮に当つて僅にその頭部を現わすに過ぎない。兎
に角、陥没説は事実に近きが如くである。陥没の時、津田浦
に来た人々は元の氏神を勧請して御亀祠と称して祀つてい
る。彼の津田港の東側にある御亀様がすなわちこれである。
現時亀磯は、漁魚場として津田浦・和田島・大原浦等の争論
点であるが、常に優勢権を津田浦が有している所以のもの
は、この御亀祠があるためであるという。
さて亀磯は、現時東西四町十間・南北二町卅間の面積を有す
るのみで、陥没以前の面積を現在のそれの十倍としても、千
軒の呼声は大に誇張に過ぎている。或は疑う、沖の瀬等と合
して砂洲・砂島をなしたものではあるまいか。実地に精通し
ている漁業家の語に依つて左に実況を示そう。
島の如きは磯を示すもので、磯を離れると、真に斯の如き水
深である。こゝで鰺・海鰤魚・海鼠・竜蝦等を漁獲すること
が多い。御亀で漁猟に従事する者の中、ウチ釣業者は津田岩
鼻の水神社は、網業者は蛭子神社、田八網またはモチ網業者
は御亀神社の祭礼には、必ずその業を休むという。こゝに参
考のために『郡村誌』の文を転記する。
オカメ礁 本浦港口ヨリ南ノ方 里拾四町ニアリ、周囲拾
四町余、深所五六丈、干潮ニハ四尺許リ顕出ス、礁標ナシ
合ノ瀬 本浦港口ヨリ卯辰ノ方二里ヲ隔ツ、周囲深浅等不
詳、浪礁ニ激シテ実測スルニ由ナシ、礁標ナシ
沖ノ瀬 本浦港口ヨリ卯辰ノ方三里ヲ隔ツ、周囲深浅不詳。