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項目 内容
ID J1900339
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔神領村誌〕○徳島県S35・7・1 名西郡神領村誌編集委員会編・発行
本文
[未校訂]一 安政の大地震
安政四年(一八五七)一一月巳の日の七ツ時(現今午後四
時)、突然激しい地震が起り、約一時間に亘つて震動はなおや
まず、人々は戸外に逃げ出したが、強震のために歩行も出来
ず、芋穴や、竹やぶ等に避難し、たゞ神仏に無事を祈念する
のみであつた。その後いわゆる余震は一〇日位もつゞき、村
人は仕事も手につかず、ひたすら動揺の止むのを待つた。幸
にして、この地震のために火災は起らなかつたのであるが、
それでも危険にひんした家は倒れ、小便壺の水が庭に流れ出
た所もあつたといわれ、今も当時の模様が村人に語り伝えら
れている。
隣村の下分村では、たまたま辰の市の翌日で、親族・知己の
者が宿泊していたので、その混雑は特に甚だしかつたという
ことである。しかも当時は一週間位をおいて大ゆりがあると
の流言があり、それで朝は神社に参拝し昼からは寺もしくは
巷に集つて、念仏を唱えたとのことである。
一八五四(嘉永七・安政元)六月一四日、大地震があつた。
伊賀の上野城が崩れて、死者が六〇〇人出た一一月四日から
一四日まで地震が頻りに起つた。(万覚帳)。大どち権現の棟
札の紀年。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-2
ページ 1902
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 徳島
市区町村 神領【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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