[未校訂]一 安政の大地震
安政四年(一八五七)一一月巳の日の七ツ時(現今午後四
時)、突然激しい地震が起り、約一時間に亘つて震動はなおや
まず、人々は戸外に逃げ出したが、強震のために歩行も出来
ず、芋穴や、竹やぶ等に避難し、たゞ神仏に無事を祈念する
のみであつた。その後いわゆる余震は一〇日位もつゞき、村
人は仕事も手につかず、ひたすら動揺の止むのを待つた。幸
にして、この地震のために火災は起らなかつたのであるが、
それでも危険にひんした家は倒れ、小便壺の水が庭に流れ出
た所もあつたといわれ、今も当時の模様が村人に語り伝えら
れている。
隣村の下分村では、たまたま辰の市の翌日で、親族・知己の
者が宿泊していたので、その混雑は特に甚だしかつたという
ことである。しかも当時は一週間位をおいて大ゆりがあると
の流言があり、それで朝は神社に参拝し昼からは寺もしくは
巷に集つて、念仏を唱えたとのことである。
一八五四(嘉永七・安政元)六月一四日、大地震があつた。
伊賀の上野城が崩れて、死者が六〇〇人出た一一月四日から
一四日まで地震が頻りに起つた。(万覚帳)。大どち権現の棟
札の紀年。