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項目 内容
ID J1900342
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔相生村史〕○徳島県T14・1・1 相生村長 前田実男
本文
[未校訂]大地震
八十七歳の老翁、谷内下分の上杉金太郎の話には嘉永七年霜
月四日を始として、西方から大きな地鳴りがし出して、馬路
のしれ滝あたりを響かした。夫より毎日〳〵大揺り小揺りが
して、家の内には居れないので、余処では籔中に避難をした
処もあつたといふが、此谷内では船戸木の田の中が安全じや
といつて、逃げ惑ひ、石の転げて来ん処を撰んで避難した
が、今も思へば恐ろしくて、実際の話はしかねる位でありま
すが、其年の末凶事があつたからとて、安政と改元なつた云
々。
内山の吉田快蔵翁の話を聞くに、同翁は丁度三つの時であつ
たが母に負はれて、母の兄弟の病気見舞に行く途中、飛脚と
一所であつたが地震がし出して、道の上の木葉で頭を撫でら
れ、母も飛脚も地上に倒れて、転げた云々。尚又、小便壺か
ら小便が揺り出されて、外庭一杯になつて居るとき、竹ケ谷
の店へ買物にいて居た父の武一郎が余り大きな地震に吃驚し
て、帰つて来たら、庭一面の小便を、何故水が溜つたかと思
ひながらに臭気のあるのを不思議に思つたといふ話。当時山
へ木を拾ひに行て居つた女子供はゆられて、地上に倒れ、叫
ぶもあれば、猪垣が崩壊して、其石が四方へ転げるのもあつ
た。山腹のへらの田抔は何反にも破れて下ること数十ケ処以
上百ケ処もあつたやうである。又此辺では久望の処へ集り、
地震が止むまで、昼夜の別なく、一同避難して居つた云々。
谷内下分妙法寺の境内には右の地震の記念となる庚申塚が一
基ある。其正面には青面金剛の像が切付けられて、右側に
「青面金剛一体昔宝暦九卯四月造之。然処、去嘉永七寅十一
月五日天大地震ニ付損尊形。依之安政五年春再興之。」とあつ
て、左側には「妙法寺梁恵代、当下分講中、同処石工林蔵」
と刻つてある。右に、嘉永七寅年十一月五日とあるは安政元
年十一月五日で、其年三月に安政と改元なつたものである。
当年八拾弐歳になる馬路の西田幸三郎翁の話では同地方では
小屋も打たねば家も出なんだ。併し、高野の上の山崖が崩壊
して、田地一面を埋めた。又字西田の田の中は大いに亀裂
し、小便は壺から溢れた次第であると。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-2
ページ 1905
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 徳島
市区町村 相生【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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