[未校訂]ホ 安政の大地震
嘉永七年即安政元年(二五一四年)(十一月十七日安政と御
改元)(明治以前は改元の年を元年として正月元日に遡り其
年を元年とす)六月十四日丑の上刻(午後二時頃)三度、翌
十五日四度地震あり。(伊勢四日市、越前の武生の線が中心
なりし故、同地は被害甚大なりしも、阿波国は其余波なりし
を以て被害なし)
十一月四日巳の上刻(辰の下刻とも云ふ)(午前十時過ぎ)
俄かに大地鳴動し大地震あり。五日の七つ時(四時―五時)
可なり揺り出し、其晩五つ半(午後九時)前代未聞の大地震
あり、人々戸外へ走り出て注意深き人は火の片代けをするも
のもあり、二三分間にして止みたり、夕方更に大地震とな
り、家は[揺|ユル]ぎ、寺の鐘はシユモクに突き当り自然に鳴り出
し、小便溜りは庭に溢れ、[御神酒|オミキ]徳利は神棚より落り、樹木
は地を払ひ、鳥も空飛ぶ事出来ずと云ふ有様にて、上方に山
を負う家は石の転落を怖れ、山上に[遁|ニ]げ上り、或は竹藪に難
を避けたりとは天保十四年生れの予の父が直話なり。
十一月十五日大雨盆を覆すが如く地鳴りあり。十二月十二日
巳の刻(午前六時)強震あり、十四日大雨子の刻(午前一時)
大地震にて雨の中を[外|ソ]とに出るものあり、間もなく地震止
む。冬に入りて屢大雪降る、其中にも矢張り揺り続く、十二
月三十日朝五つ頃辰の刻(午前五時)大地震となり人々戸外
に飛び出す。
安政二年(二五一五年)正月にも四・五日の間は可なりの地
震四・五度あり、二月少々[宛|ヅツ]日々地鳴りあり、三月より五月
までも一ケ月十度位、六月四、五度、七月少々、八・九月に
四・五度にして止みしなり。因に記す昨年十一月五日の地震
を安政の大地震と云ふ、幸に我村には人畜の被害なかりしな
り。
此地震より辻と井内谷の境なる[小松谷|コンマツダニ]より南西十八・九間の
所の[米|ヨネ]の尾峠に烈け目を生じ、水を噴き出し始めしなり。
此年の作柄を書き置けるものを見るに、阿波一般の夏作八
分、稲作十分、大豆七分、綿作十分、藍作九分とあり。
地震の砌の諸物価相場御国米五百十匁、麦八十八匁、酒二匁
二分、綿小売三十七匁、金七十匁、銭百匁とあり、記して参
考とす。
安政元年十一月八日藩は令して去る五日の大地震を奇貨とし
て商人の暴利を[貪|ムサ]ぼるを禁じ、罹災者に諸物品を高価に売
り、或は修理職工日傭人等賃銭に過分の増額をなすなからし
め、犯す者は厳重に処分すべく、且つ村役人に対しては監視
を怠らぬ様厳達せり。