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項目 内容
ID J1900326
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔応神村郷土誌〕○徳島県S33・10・1 秦春一編
本文
[未校訂]安政四年の地震は霜月四日の午後五時頃坤の方から地鳴が起
ると思ふ間もなく揺出した。此日は西貞方の新田の八坂神社
で人形芝居があつて中原以西の大部分は見物に行て居た最中
で、大騒をしたさうだ。此の地震は数日に亘つて揺つたが五
日が最も烈しくて地面は裂けて水を噴出し倒家も沢山あつ
た。其上へ津浪が来るとて村民等は皆々狼狽して西へ東へと
逃出した。籔中で避難し野宿するものもあれば中には板東方
面までも落延びたものも少くない。斯る騒ぎの場合に臨んで
泰然動かず度胸を据へて居残つたは西貞方の松浦次藤太、丸
岡義平、尾形直蔵の先代家族全部であつたといひ伝へて居
る。併し津浪は陸地を襲はず只だ川中のみに止まつた。され
ども数日に亘つて大震小震が連続したので住家を離れて長ら
く避難し野宿した結果貧富の論なく大いに飢渇に苦んだが怪
我人死人の無かつたことは幸であつた。
此地震に因り田畠の亀裂、水路の埋没其他の損害を蒙つたの
は、本村の中央以西に多くて以東は少いやうであつた。今其
亀裂の遺跡を存して居る主なるものを挙げると、
西貞方で南は鷹橋の西南大凡六十間の処を起点として其幅五
六間から始まり、北は小島橋の西四五十間の処其幅一間を終
点とするまで三丁内外の亀裂跡と、同じく鷹橋から西へ一丁
半倚つて、北へ三四十間幅五間位の亀裂跡と、同じく新田新
墓地の西七八間の処から第一線と稍並行に、凡五間幅で西北
へ走ること大凡五十間の亀裂跡と、中原字北では七八間位の
亀裂跡がだんだんある。昭和二十一年十二月二十一日午前四
時十九分震源地紀伊半島西南沖から出た大地震は徳島県の南
方に大被害を与へ海嘯も起つて浅川の如きは全滅の被害を受
けた本村にも又家屋の損傷甚だしかつたが幸に人畜の被害は
免れた。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-2
ページ 1892
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 徳島
市区町村 応神【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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