[未校訂]安政四年の地震は霜月四日の午後五時頃坤の方から地鳴が起
ると思ふ間もなく揺出した。此日は西貞方の新田の八坂神社
で人形芝居があつて中原以西の大部分は見物に行て居た最中
で、大騒をしたさうだ。此の地震は数日に亘つて揺つたが五
日が最も烈しくて地面は裂けて水を噴出し倒家も沢山あつ
た。其上へ津浪が来るとて村民等は皆々狼狽して西へ東へと
逃出した。籔中で避難し野宿するものもあれば中には板東方
面までも落延びたものも少くない。斯る騒ぎの場合に臨んで
泰然動かず度胸を据へて居残つたは西貞方の松浦次藤太、丸
岡義平、尾形直蔵の先代家族全部であつたといひ伝へて居
る。併し津浪は陸地を襲はず只だ川中のみに止まつた。され
ども数日に亘つて大震小震が連続したので住家を離れて長ら
く避難し野宿した結果貧富の論なく大いに飢渇に苦んだが怪
我人死人の無かつたことは幸であつた。
此地震に因り田畠の亀裂、水路の埋没其他の損害を蒙つたの
は、本村の中央以西に多くて以東は少いやうであつた。今其
亀裂の遺跡を存して居る主なるものを挙げると、
西貞方で南は鷹橋の西南大凡六十間の処を起点として其幅五
六間から始まり、北は小島橋の西四五十間の処其幅一間を終
点とするまで三丁内外の亀裂跡と、同じく鷹橋から西へ一丁
半倚つて、北へ三四十間幅五間位の亀裂跡と、同じく新田新
墓地の西七八間の処から第一線と稍並行に、凡五間幅で西北
へ走ること大凡五十間の亀裂跡と、中原字北では七八間位の
亀裂跡がだんだんある。昭和二十一年十二月二十一日午前四
時十九分震源地紀伊半島西南沖から出た大地震は徳島県の南
方に大被害を与へ海嘯も起つて浅川の如きは全滅の被害を受
けた本村にも又家屋の損傷甚だしかつたが幸に人畜の被害は
免れた。