Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J1900325
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔木沢村誌〕○徳島県S51・1・15木沢村誌編さん委員会
本文
[未校訂](坂州部落誌)
「坂州の姿」は、嘉永七年の大地震として次のように記録し
ている。
「大字坂州寺谷の集落は南側の日影の場所にある。しかし昔
は蔭さん宅を除いて全部が谷の北側、南斜面に建つていたと
いわれている。嘉永七年の十一月四日、五日に起つた大地震
で、家の後にそびえている山から石がころげ出し、今にも山
くずれが始まろうとした。人々はおそれおののき、坂州宮の
窪まで逃げて行つたという。その後山くずれの危険を予想し
て家を全部南岸に移したといわれている。」
この地震の災厄を受けた中でも、坂州部落の字向エの内の通
称寺谷の傍示は、昔は五戸の集落で、そのうち四戸は右岸南
面の傾斜地に住家があつた。嘉永七年(安政元年)の大地震
に、家裏の急峻な崖山から岩石が転落して非常な危険に遭
い、急ぎ倭武神社のある宮の窪の境内へ退避したという。こ
の境内には経塚がある所以でもあろう。当地方では昔から経
塚の地点は地震の震動を感じない安全地帯であるとの言い伝
えがある。
この災難によつて、将来の生活に不安を感じた西岡春見家、
上泉喜代松家、小蔭福一家、新田元太郎家の先祖が左岸に移
転したといい、蔭柾弥家は昔から変つていないと言われてい
る。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-2
ページ 1892
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 徳島
市区町村 木沢【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.001秒