[未校訂](坂州部落誌)
「坂州の姿」は、嘉永七年の大地震として次のように記録し
ている。
「大字坂州寺谷の集落は南側の日影の場所にある。しかし昔
は蔭さん宅を除いて全部が谷の北側、南斜面に建つていたと
いわれている。嘉永七年の十一月四日、五日に起つた大地震
で、家の後にそびえている山から石がころげ出し、今にも山
くずれが始まろうとした。人々はおそれおののき、坂州宮の
窪まで逃げて行つたという。その後山くずれの危険を予想し
て家を全部南岸に移したといわれている。」
この地震の災厄を受けた中でも、坂州部落の字向エの内の通
称寺谷の傍示は、昔は五戸の集落で、そのうち四戸は右岸南
面の傾斜地に住家があつた。嘉永七年(安政元年)の大地震
に、家裏の急峻な崖山から岩石が転落して非常な危険に遭
い、急ぎ倭武神社のある宮の窪の境内へ退避したという。こ
の境内には経塚がある所以でもあろう。当地方では昔から経
塚の地点は地震の震動を感じない安全地帯であるとの言い伝
えがある。
この災難によつて、将来の生活に不安を感じた西岡春見家、
上泉喜代松家、小蔭福一家、新田元太郎家の先祖が左岸に移
転したといい、蔭柾弥家は昔から変つていないと言われてい
る。