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項目 内容
ID J1900313
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔海部郡誌〕○徳島県S2笠井藍水編
本文
[未校訂](満徳寺記録)
于時嘉永七甲寅年十一月四日朝四ツ時至極天気宜敷候、当院
へは西由岐浦一向宗光願寺折節来り饗応いたし有之候処、俄
に大地震樹木枝をならし井水濁り水瓶に汲置し処の水庭へこ
と〴〵くこぼれ海には汐くるひたる由申来る、依之諸人東西
の山を求め家物を運ぶ、愚院も記録過去帳神仏不残薬師堂へ
運び其夜は薬師堂にて守護す、明五日晴天昼過迄何事もなく
汐直り候由申て諸人本宅へ又々家物持帰り候様子、依之寺を
空仏にいたし候も本意ならずと夫々寺へ運び本堂へ入香花等
を備へ納経等相済候折から忽然として地震昨日に倍して動
す、是七ツ少しすきの事也、又々諸人あわて山山へ登るに東
西を失ひ程也、此時当院には弟子弐人深観十四才玉探十一才
道心壱人喜秀儀五十一才家来忠八四十三才女房おかな三十九
才娘おカナ十七才此内弟子弐人は早く薬師堂へ走らせ喜秀儀
不居合忠八は夫婦共来り候得共女は此時役に不立故山へ走ら
せ忠八に古記録過去帳を持せ我は本尊を奉守玄関へ出れば早
津浪出羽嶋へ入ると見へて大煙立、跡を捨て薬師堂へ登り見
返れば一円津浪打入船家共流る趣、是を見て杉尾山へ登り夜
四ツ前に[百々呂|トトロ]山へ登る、月の入又大地震津浪又打入、津浪
七ツ過のより一尺程ひくし、七日百々山より薬師堂へ来り見
れば薬師堂石段下より二ツ目の上迄津浪入し跡あり、本堂へ
至り見れば東の方へ一間不足にじり、くりは皆流隠、然に本
堂の仏一つも減なし、庚申天神是二ツ流失損す、是は外がわ
に安置せし故也、大玄関に仮殿をいたし住吉宮を安置せし、
是は本堂の下檀に不思議に不損います、牟岐津宮流れ損、蛭
子大黒天合殿西の浜に安置の処流れ損、然れども蛭子神体出
羽嶋にあり、大黒天は西浜にあり牟岐津神体は杉谷にあり、
依而役人浦人安政二乙卯正月寓居薬師堂へ来り先住吉宮は牟
岐津宮の地内に殿を建、牟岐津宮は元地に殿を建、蛭子大黒
合殿元地に建度趣尤此度の事故神主等迄には申不伝候間、棟
札にも御除被下候様と申来る、□□儀尤也と存氏子の意にま
かし正月廿八日夫々遷宮畢ぬ、右心得之ため跡書をいたし置
くもの也
北村家所蔵の記録の中に日和佐の古絵図がある、(○中略)
此図には大筒の据え場を示してある、実は此図は台場(大筒
据え場)を示すのが根本の目的であつた様だ、台場は後山の
突角と、大磯附近の突角と両方に示してある、さうして大筒
一箇宛を書いてある、後山の分には「後山大筒据え場、右山
麓より場処迄道[法|ノリ]拾弐丁程、右場所平地三間半に二間半程御
座候」と記し、大磯の分には「中之蔵山麓より大筒居場迄道
法五丁程、右場所地磐三間半に二間半程御座候所去る寅年地
震之砌、沖手の方一間程崩落、只今南北三間半東西一間半程
御座候」と記し尚ほ附箋にて絵図を崩落ちた後の形に直して
ある、そして此附箋の方には大筒の図も見えぬから安政元年
の地震以後は大砲もなかつたであらう。

東牟岐の判形人広田家の家系
八代、半之助網正安政元年十一月五日震災にて居宅流失し
た。

牟岐神社(無格社)大字牟岐浦(西)字浜崎(○中略)
満徳寺記録に依れば同寺が別当で諸事の指図をなした、安
政元年津浪のため流失し、一時仮社殿を設けた、明治十年
過今の社殿を建造した。

浅川城 加島には今吉田氏の本家別家二軒があるが、安政地
震の時迄はもう一軒の家があつた、此家は震災の後粟ノ浦
に移り立石と称してゐる。

浅川・池内氏家系
八代池内円治兵衛良久(○中略)安政元年十一月大地震
海嘯があり円治兵衛は復興の事に心を労し病に罹り翌年正
月六十三歳にて死去した。

安政地震の碑
浅川浦御崎神社境内にある幅三尺高さ四尺余の石に十九行
に刻してある全文次の通り、于時嘉永七甲寅十一月四日辰
刻大地震須曳して潮狂ひ町中へ溢込み是全く大潮の入るな
らひと人々驚き山上へ荷物を運ひ逃け登り周章あへり此日
は一天に風雲風なく日輪朧如くなれは宝永年度の如き震汐
もあらんかと海原に篝火焚其夜明し又翌日五日は風収り天
色前日如く殊に暖なる事時候に背き審敷思ひ山上へ仮小家
を建て荷物を運者も有又は前日の変にて事すみと心緩み持
出たる荷物持帰る者も有て区々なる折柄申刻より古来未曾
有なる大地震暫して家蔵崩れ黒煙立山海鳴ひゝき老若男女
周章逃まとひ忽津浪山の如く押来れは悲む声々喧しくもよ
り〳〵の山々へ逃登り見るに一番汐より三番迄の大荒れい
わんかたなく浦村人家土蔵不残流失せり天満宮大蔵御崎神
社江音寺千光寺東泉寺門徒庵引残り四番汐より後は幾度共
なけれは夜に入猶大地震鳴動にて人々生る心なく念仏のみ
に夜明し暁寅刻比に至り震遠くなり浪も少く静り収るに土
地は跡なく海河原とかわり哀れなる事言葉に述難し津浪高
さ二丈より処によれは三丈余り観音堂石段廿五段迄一谷坂
下迄伊勢田は馬頭観音迄浦は辷石坂下迄三ケ寺共座上四尺
余当浦死人二人死す馬二疋死大坂其余国々船乗り逃出死人
夥敷由百余年後斯如き大地震津浪有節必前に印有へし構て
山上へ仮小家建鍋釜鎌鍬麦米当用品持運び仮住居用意決て
し船乗り助からん思事なかれ後の世人心得為め此あらまし
を書記し残し置きものなり大汐年号永正九年八月四日慶長
九年辰十二月十六日慶長年迄は九十四年宝永四年亥十月四
日是迄百四年目なり嘉永七寅年迄百四十八年目なり宝永年
度の大汐はいど水ひき海浜より二百間もひき死人百五十八
人死すと山道は年々つくるべし
明治三十四年辛丑十二月建之
大田富蔵、大沢久太郎、大沢政太郎、大田芳太郎、
岡野鶴十郎、伊勢田照平
安政地震の碑
大字浅川天神社境内に建設せられてゐるものは高さ四尺余
幅二尺余で全文次の如し。于時安政元甲寅十一月四日辰刻
地震暫くゆり巳刻比汐狂ひ往還へ溢れ人々驚山上へ荷物を
はこび逃登りあわてあへり、夫より心をくはり其夜を明す
翌五日晴天雲風なく日輪朧の如く暖なる事三月頃の如くな
れは審敷思ひ山上へ荷物を持上るもあり又は前日の変で事
済しと思ひまち〳〵なり折から申ノ刻比大地震暫有て終後
大海より高サ三丈計の大汐さし込其早き事矢を射るが如し
浦上カラウト坂麓迄いせだ戸や山の関迄上り其夜汐さし込
事幾度ともしれす天満宮、大年御崎三社並に浦三ケ寺相残
り其余在家流失村分西ノ奥東谷人家悉流失なれ共用心せし
故村中怪我人なし永正慶長に両度あり又寛永四亥十月四日
稲観音堂石像地蔵尊に記あり宝永度百年前後なれともこた
びは百四十八年目也依テ後年寒暖時候に背き大地震ゆる時
は必由断すべからす後世心得のため是を建るもの也

東泉寺 浅川字川西にある。(○中略)、宝暦五年当時第七世
快雄代今の地へ移転中興創立す。後再び安政元寅年大汐の
ため器物書類流失す。
江音寺浅川浦字川西の山麓にある。安政元年大汐堂宇へ侵
入し器物書類流亡した。
千光寺 浅川字川西の山麓にある。于時寛政七卯年六世渓宗
代中興再建す、是より後安政元寅年再び大汐堂宇へ浸入、
器物書類流亡す。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-2
ページ 1884
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 徳島
市区町村 海部【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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