[未校訂]安政元年霜月の大地震は資料が最も多くて木岐の小坂元日堂
の地震次第には「寛永四年より嘉永七年まで百五拾壱年ぶり
に当る」とあつて次には、
嘉永七甲寅十一月四日朝五ツ時(午前八時)之頃大地震ゆ
り塀土蔵少々宛痛み潮高く満込み引汐甚すごし木岐ニ而ハ
籠場迄汐干るに附而ハ人々恐れて大汐入抔と云て夫より浦
人又は浜近くの人家まで大に騒ぎ立て家物等を山又は寺堂
籔抔土地の高き処へ持ち運びして其夜は番して家内共置く
のもあり内へ持帰るのも有り又大家は人雇して草鞋抔腰に
くゝり付けてすハと云ハゞ手に当る物持て逃るべしと云付
け用心厳しくして居る処空晴渡り雲なければ勿論風もなし
尤地震は一ツ切ニ而唯静なり終に其夜を起明し斯くて五日
の朝になりしが早朝より空済切て風も吹かずされども日の
面少しうるみあるやうに思ひ人々不思議の体に存ずれども
穏にあつて地震も前日の一ツ計に而ゆりもせずかるが故に
其持出し置きたる家物着類等を持帰り其上煤掃抔迄仕たる
家も有り何事も無し先祝として身の分げんに応じて身祝を
せんとする処夕七ツ時(午後四時)に至り古代も無き大地
震ゆり出ししばらくゆる内に煉塀崩れ家土蔵大に破損す其
烟り火事同様に相見江火の用心第一に守り年寄子供の手当
助(介?)抱する人も有り又は持帰り有る諸道具を又々持
歩運するも有り家財を捨て逃る人も有り其中にも彼の崩る
ゝ塀に敷かれて泣きさけぶ人四人程あり内三人ハほりだし
背負ひて助けしが残る一人ハ終に其儘流れ死す分けて浦人
は高山村分の山並籔へ逃込み又は寺山八幡山明神山荒神山
抔へ逃上り何もかも捨て逃るやら持運するやら家内ちりぢ
りに逃行くうち未申の方と覚へて空大に鳴る其音山も崩る
が如く響くなり其数大鳴小鳴とも三十六度鳴る間もなく津
浪打来る其大いなる事高さ三丈余程なり家土蔵よりはるか
に高し逃る内早新橋落ちて跡へ逃げのび助る人もあり又汐
にと切られて流れ死す人多し一時に木岐・田井・西由岐・
東由岐・西野地・湯村・牟岐・浅川・宍喰・大荒れ其余御
国中村浦多少宛之痛有之候其津浪に流れ死する人多し木岐
浦ニ而拾壱人田井村に壱人西由岐浦に拾六人東由岐浦に拾
四人西野地村に壱人牟岐浦に三拾六人死す其外村浦に死す
る人多し牛馬も少々損す此外家数人数田畠船堤破戸等多少
痛有之といへども筆に尽しがたし是を略す其五日の夜中も
何度と限りなしにゆる内にも大ゆり一つあり其後昼夜ゆる
に付而山中竹藪抔に小家を懸け居たる事久しく尤此小家懸
の義ハ流れざる処まで右様致す人多かりけり又流れたる処
の浦人にハ御上様より小家を打ち被下誠に難有事也右津浪
の上り留りを爰に記し置くもの也先八幡様の上の石壇下よ
り三ツ目迄ニ行留る延命寺の石壇にてハ凡八歩通りつかる
奥留りハ柿の谷前の堤切ニ留りかしや谷ニ而ハ甚三郎名負
の畠菊蔵居屋敷切ニ留る海部谷ニ而ハ新替田ニ而留る柿の
谷ニ而ハ中の仲蔵故居屋敷切ニ而留り影地下ハ仲蔵領升田
切ニ而留る白浜ニ而ハ庵の下の堤切ニ而留る南白浜ニ而ハ
(欠字)木岐村分ニ而ハ富太郎居宅是一軒はむなしく流る
ゝ残りて汐痛の家は真福寺北地浜恆蔵仝居宅柿之谷下伊三
郎居宅小坂紺屋喜兵衛居宅同出店吉之助居宅おやす居宅政
蔵土蔵豊太郎此拾軒は痛計りに候得共此内にも痛に多少有
之候又苫越の喜兵衛片の内の喜兵衛多吉此三軒は崩れ込み
流れ出ずして其儘居屋敷にあり由蔵竹蔵此二人は馬見原住
居在の故流れ候白浜ニ而は市兵衛家峯助家新兵衛隠居家流
るゝ浜分の残家記し置く魚御分一御役所様岡田朝蔵殿村上
民吉殿居宅新屋喜四郎殿居宅・同西の新宅猪之亟清兵衛民
蔵甚吉平左衛門喜三兵衛和三郎由蔵喜三郎与市兵衛九右衛
門おとら上の川吉五郎拾七軒残り其外本母浦馬見原とも惣
流れなり又田畠の破損多し汐入の田畠其痛に応じて鍬下を
下し置かるゝ事壱ケ年より五ケ年迄の間勧農場所ハ普請料
夫相応ニ下し置かる又浦方漁人へハ船網等の御拝借下し置
かれ候処海部郡中ニ而凡三百貫目余と云噂也誠ニ以難有次
第也
田井村ニ而ハ九軒木岐紺屋喜兵衛出店相加へ拾軒流るゝ余
ハ痛迄都合弐拾壱軒此痛之内にも多少有之候地震津浪に付
而歌に
ゆるぐのに四方や浮地の要石かしまの神のあらぬかき
りを
同返事
ゆるくのになせにおさへぬ要石かしまの神は留守か寝
たのか
是も同年の地震に付而
何国もゆつたりとなるしるしにや世直しとこそ地震か
ら云ふ
同年十二月五日年号替りて安政元年と改る付而歌に
へんな年早う嘉永と思ふたに御代安政と替る世の中
(中略)
御上様より御国中の津浪に流れ火事に逢たる者共へ壱人前
三合宛の普持(扶持の誤)を廿日余り被下し置候事誠に難
有仕合冥加仕極之御事也(下略)
と当時の模様が記されてある又同地浜名理作氏所蔵の地震詳
密記の附記には安政元寅年木岐浦に於ける詳細として、
安政元寅年十一月四日微震潮狂三尺余ニシテ五日大地震ニ
付大津浪浸入セリ其ノ詳細ヲ示サンニ半里程沖合ヨリ津浪
浸入シ其高サ平水ヨリ高キ事二丈余夜ニ入リ数度浸入ス我
浦人家二百廿戸アリ其劇浪ノ為崩サレ残ル者僅ニ廿戸ナリ
延命寺真福寺ハ皆無事ニシテ村方へ高浪圧入ル事凡ソ十二
町即チ今ノ大師庵迄ニ至ル死スル者老弱老女十人是皆強欲
ナルモノ又ハ愚鈍ナル者ナリ又百石以下ノ商船及漁船共七
十艘余田面へ流レ込ミ悉ク破損ス浦人ハ明神山荒神山及延
命寺山八幡山等へ其難ヲ避ク其狼狽言語ニ尽ス能ハズ此地
震漸ク止マルヤ蜂須賀公ヨリ郡中へ金千両ヲ下賜セラレ先
代喜四郎ヨリ木岐浦人へ米四拾俵ヲ救助トシテ与フ又海岸
の田地カタノ内田井村塩田抔ハ二三尺堀レ荒地トナル喜右
衛門代を経万喜太郎代迄三代間ニ漸ク工事調ヒ立毛ヲ生ズ
聊カ書シテ以テ後裔ノ参考ニ供ス
浜名万喜太郎
とあるので安政地震の同地の模様が別るばかりでなしに田井
村には当時塩田のあつたといふ事をも知られる又木岐の白浜
彦兵衛が三十三歳の時右の大震災に遭遇して書遺された子々
孫々に至迄心得之事嘉永四歳寅十一月五日之事永代書置之事
としたる記録があるが嘉永四歳は嘉永七歳の誤で四歳は辛亥
で寅は其七歳即安政元年が改元ならん前で其記を見るに前々
に挙げたものとは重複の恐もあるが其内には、
嘉永四歳(七歳の誤)寅十一月四ツ時大地震有之汐大ニく
るいみな〳〵大に心配仕浦方海辺之物みな〳〵諸道具抔山
の上江持運ぶ大サハギ仕候内其日ハ何の風情も無之みな
〳〵大悦仕明五日早朝より諸道具杯持かへりみな〳〵いわ
いなど仕候内五日以ての外大地震ゆり道筋かど十文字ニわ
れ少し仕候内天いかづちのごとくどんとなりみな〳〵きも
をつぶし候内にわかに大汐こみいだしみな〳〵山江にげか
ね候処其汐高サ四丈程打上り浦方とも皆々家相流れ人じに
多く有之みな〳〵其夜地震ゆりながしにゆり明方迄七十五
度夜明を待ちかね浦里うんかのごとくみな〳〵山ニ而なく
者も有真言申物も在り親子みな〳〵わかれ〳〵になり親を
よぶ子は有かしんだかながれたかと誠に〳〵あわれなこと
ども也
明方に相成候得ば家壱軒もなく誰が家敷やら田地やら相分
り不申明六日ゟ七八日迄みな〳〵山に登り山分江にげるも
あり又山の上にて板苫などひろい小家をかけるもあり田地
の儀ハ大半相流れ漁方船網壱艘も残りなく網ハ尤家諸道具
すて置からだ計ニ相成誠ニ十方ニ呉候事共也追々御上様ゟ
御手当被仰付網船迄御造り被仰付飯料夫々御手当ニ相成忝
仕合也田地之儀ハ追而御見分被仰付五ケ歳三ヶ年と御鍬下
被仰付追々田地相開候処其上漁師共江家夫々御立被下波戸
道筋浦方屋敷床夫々御還農(還は勧の説)御普請ニ相成此
地震四国九州南海東海迄も尤京都花浪人じに幾万といふ事
なし先ツ此白浜彦兵衛下ノ大田地迄南地屋敷迄北白浜あん
の下中屋門迄木岐徳井口迄汐入候田井ハ観音様下迄右之通
永代記録ニ印し置く
とあつて尚又奥に「心得方之事」として、
大地震ゆり候得ば油断不仕山抔へ上ル事
いけの水みる事少しもなしとなる汐はやくる三度大汐くる
あと〳〵すくなくなる
大地震度々ゆり候とも次第〳〵ニかるくなる三年も五年も
少し宛ゆる
尤風吹きくもり天気は地震ゆり不申事日本清天なぎニ而候
得ば油断不仕事
地震大汐あと米安くなる
百年ぶり位ニある事むかしより印し有
白浜王子様相流れ卯八月彦兵衛甚五郎両人世話人ニ相立遷
宮仕事
と書いて尚又
彦兵衛荒田野江追善(善は繕の説)に罷越かへりに松坂あ
んの下ニ而あかり夫より苫越坂迄上りかね其時早木岐由岐
壱軒も流れて無之苫越坂より真福寺上江上り延命寺山づた
い木々天王様ニ而夜明し夫より夜明罷かへり夫より家内四
五日も若布だをにてにたき仕候事子々孫々ニ至迄相心得可
申事
と附記してある田井で八拾四歳の高齢者小畑和蔵翁の直話で
は、
田并の谷々の人々はとんこ峠に逃げ登つた私も母に連れら
れ逃げたが恐ろしいとは思はなんだ其時下を見るとまるで
海になつて居つて家がぼつ〳〵流れて居つた夫を見ながら
上つて行くと山から石が転げて来るが難なく上つて静まつ
た後には下に下りて高い処に小屋をかけて居つた又浜辺の
人々は田台の方へ逃げて来て突き坐つて居つたを見た死人
は一人であつた夫から三年振の辰の年には大時化で浜の並
松が倒れて仕舞つた云々
とであつた次には西由岐で大正十三年の現在に小畑翁より二
歳上で矍鑠として居る八十六歳の魚川忠次郎翁の直話に依る
と、
安政元年霜月の大地震は翁が十五の時であつたが当時同浦
では般若寺と光願寺とが残つた計で其他の家は残らず流れ
て般若寺上には村方の百姓衆が親切に小屋を建てゝ救つて
呉れた位であつたので荒田野迄も逃げて行た人もだん〳〵
あつたが波戸の処に於ては震動最中に家屋が崩壊したが諸
道具家財に惜みがかゝつてぐず〳〵して居た人等は大抵流
れて七八人の死人があつたに慾気離れて其身ばかりで逃げ
た人等は助つた翁は其時五ツ六ツになる妹のキヨを裸体で
背負つて般若寺上迄逃げ上り親に渡して二親及び兄弟七人
助つたが翁の隣の或かみさんは子の手を引いて黒岩の処迄
は逃げ延びたが其子の足が間どろいので我か身を気遺ひ其
子を其処に捨てた儘光願寺の上へ逃げ行いて翌日見たら其
子は一夜泣通して遂に絶命して居つた其死骸を取敢へず葛
籠に入れて光願寺の上迄持つて行き地震やんだら取置せう
と置いてあつたが其夜盗人共が来て金目の物かと取逃げて
山の上にて開いて見たら子供の死骸であつたので其儘其処
に棄てゝあつたといふ又当時は村方の人々が大層世話して
握飯やら其他色々の救助の品を寄贈せられた
とのことであるが本書編纂資料として東由岐浦中野直保氏の
指出された古い問屋帳に見えたる所の原文で足らぬは括弧内
に補ひ誤れるは―印で示し其下に括弧内へ正して示すと、
津浪之事書附
嘉永七年
寅拾月(拾壱月の説)四日の昼八ツ頃少々地信(地震)ゆ
り又は汐少々上り地下中ふしぎに思ひ扨ハ是こそ津浪ニ間
違無(き)為油断無く家物山ゑ(へ)持上り何角(に)至
(る)迄持はこび其夜山ニ而夜明し明る五日人々寄集り色
々の咄其日の昼迄は又家物我家ニ持帰り何事もなし此時さ
より少々宛あり又ハ西由岐浦宮ニ而角力けいこ有(り)そ
れを見に行(く)人有(り)もはや七ツ過ニ成(り)大地
信(震)ゆり又ハみな〳〵大井に(大いに)驚きいさん
(いつさんに)東由岐浦へ走りみなうろたへて物はこぶ様
なしうろたへてなべかま持はこぶ物(者)有(り)又はや
くにもたゝぬ物山ゑ(へ)持上り物(る者)有(り)大事
の金銀をハすれ(わすれ)てぬげ行(く)物(者)も有(り)
とやこふ(とやかう)云(ふ)内早汐引(き)沖を見れば
大山よりも高き成(なる)大津浪押寄せ早(く)山ゑ(へ)
ぬげ(よ)早く〳〵と大勢の声皆夫々にぬげ上り(る)此
時ごよくな(劫慾な)人みなながれよく捨(て)たる人ハ
ぬげ行(き)をふせ(おほせ)たり
尤此事相心得可(く)候尤其夜は山ニ而夜明し明る六日の
朝喰物もなし皆我とへ小野辺川福井下原廿枝郷々とへ殿の
世話に成(り)七八日もくらし(す)内御上より御使と有
(つ)而皆々ろこへも(どこへも)行(く)事相叶ハぬ御
上ゟ御手当米被仰成又ハ小家御立被成候又ハ漁師中へふね
作(り)被成候又漁頭網船台所道具下成(被成下?)何角
ニ至(る)迄御拝借被仰付難有仕合又商人中へ家建被成御
拝借として三百目宛此返上廿ケ年ニ上納仕候事尤此時之御
郡代様高木真蔵様と申人也
右之通此帳面ニ書附置候此後無油断相心得可被成候
尤此時米八十目位麦六拾目位ニ御座候尤東由岐浦ニ而流人
廿四五人相ながれ候
とあるが此地震に東由岐浦の加子役利兵衛は救護に努力した
ので其翌安政二卯五月に御上より次の如く御褒めに預つた
覚(戎谷利平氏所蔵)
東由岐浦御蔵加子 利兵衛
右之者爰昨冬之地震高潮ニ而海部郡村浦之内居宅流失潰家
又は潮入□等ニ相成難渋之者共有之候砌自分居宅之義流家
ニ相成迷惑仕候中前顕難渋之者共へ為救助指出候段心得宜
ニ付右之趣本〆面々へ申出有之候処奇特之義ニ候得は褒置
候様御当職御下知有之候条右様可相心得候 以上
卯五月十五日
尚本町内に存在して居る当時に於ける地震海嘯紀念の碑を抄
録すると木岐浦白浜王子神社の境内にあるものには
嘉永七年寅中秋
嘉永七寅十一月五日晴天七ツ晴大地震半時之内大汐三度込
入軒家流失凡四丈余上当宮流失明卯八月遷宮大地之節油断
無之事荒方記置
とあり東由岐浦修堤碑には、
嘉永七寅十一月四日朝辰刻地震潮立浪怒翌五日朝巳刻地大
震人皆避難於山頂海嘯襲来而到於長円寺下堤防破潰流失家
屋百四十戸村内僅十余戸存耳焉死傷夥極悲惨領主蜂須賀侯
命更改修
と見江志和岐天王地神社境内のものには次の如く見江て居る
去ル嘉永七寅年霜月初四日朝五ツ時大地震不時ニ汐高満有
此ノ時浦中□□寺或ハ高キ人家へ持チ運ビ翌五日七ツ時亦
タ大地震勿津浪押来ル船網納家不残沖中へ流レ失浦人漸く
寺又ハ山揃へ遁登り夫々無難ニ一命助りし事全氏神諸仏神
社御加護也俵(ママ)二日又々幾後年ニ及大地震ノ節汐高満有之時
ハ定津那み押来ルへし其ノ期ニ及少も無油断荒々此石ニ□
記長く子孫へ□ヲ□度而已信州下稲郡(伊那)住人石工新吉 脽(ママ)之
法印隆鳳写之 文久二戌年施主浦中
大施主 商人中
九月中吉辰 世話人 大黒屋利兵衛