[未校訂]寛政元年の地震もあつたが本村内には宝永以前の地震と共に
文書に存する処もなければ口碑にも亦残つて居らん唯口碑に
残つて今猶古老に恐れられて居るのは安政元年の大地震であ
つて江野島で八拾歳の高齢者武田広吉翁の話を聞くに、
私は僅か七ツの時でありましたから充分覚えて居りません
が西の方から大きな地鳴りがすると思ふと毎日々々内の家
も隣の家もぐわたひち〳〵と大きな揺りがしましたが私は
地震といふことも存じませずに何うしたことかと見て居り
ますと家の軒が地に附くやうに見江まして屋根の瓦がぐら
り〳〵と落ちて来ましたいやもう恐ろしい事でありました
其内土地が割れたら其割れ目に狭まれて揺り殺されると方
々では籔へ逃げたら根鞭がからんで居るから割れんといふ
ので籔中へ逃げたといふのを聞きましたが私処のあたりで
は地震が揺つたら津浪が来て家もなにもさらはれると八鎌
しう云うていまして皆々逃げて行きますので何処へ行くと
も知らずに母に連れられて行きます内に手は引かれて居つ
ても足が揺られて歩けませんので背中に負はれて行きまし
たのが中庄の観音山でありまして其処へは沢山人が逃げて
行つて牛や馬やに米麦抔を附けて行つて居たもの沢山で暫
く其処で居りましたが帰つて来ても矢張毎日小揺は長く続
いて居りました
と八幡黒地色ケ島今津浦抔本村内の村浦は大抵同処へ避難し
たといふのは古老の話で一致して居る。
今津浦で八十二歳になる西森コヨシ刀自の話を聞くに、
私は十になるかならんの年の冬で西の方に地鳴のするのも
聞きました又飛ぶ鳥も落ちるやうに思はれ家は倒れるやう
に揺りましたので内には居れず父や母やと外へ逃げ出まし
たが隣近所も皆々騒いで内に居るものとてはありませなん
だ其内沖の方がほでつて静かになつたと思つて居る内俄に
荒れて浪音が高くなつて来たので皆々大いに驚いて丈夫な
男は年寄子供女を扶けて津浪が来るとて何処へか逃げて行
きましたが父は本名庄吉で綽名を蛭子と取つた位で南北仲
間の者等に知られた気丈夫な人物でありましたが申されま
すには「当所は昔から沖石権現さんが守つて御座るから気
遣ひない逃げるに及ばん津浪は来ん」と落附いて居ました
が浦辺の松原へ打上げた位で格別の事はありませなんだ夫
れに此地震が仕出す前には沖へ出て居た船もありましたが
沖石権現さんの神体となつて居る大石が引綱に引つかゝつ
て出て来た後に信行寺の石壇にしようと同寺へ舁いで送つ
てあつたら三晩も続けて住持へ夢で告げるには「我を沖の
石権現と祝つ呉れたら津浪は来さゝん」と仰せられたとい
ふが津浪も来ねば海の荒れる前には権現さんが放螺貝を吹
いてお知らせなさつたので地震の時も権現さんの貝の音を
皆々聞いて海へ出て居た漁師其他の船も帰れば凶事がある
と用心して船人は孰れも海へ出なんだので厄難に罹つたも
のがなかつたが今でも彼の時の事を思へば身の毛がよだつ
心地がします
と話された其他の古老に聞いても大同小異で恐ろしかつた小
便壺の小便がざぶ〳〵外へ揺出されて歩けなんだ家々には火
事を恐れて火を消して皆々外へ逃げて出た観音山或は籔へ避
難したといふのが通有の話であつたが此地震は嘉永七年霜月
四日を始として其月中は揺り続けて極月に入り漸く静かにな
つたので安政元年と改元なつた夫れで歴史上では安政元年の
大地震として伝へられて居るのである