[未校訂](神明・中央・中村)
刈揃山の大崩壊
安政年間には(一八五四―六〇)日本の地震活動は極めて盛
んであつて、その六年間に全国各所で十三回もの地震が有つ
たことが記録されているが、其の中でも安政元年(一八五四)
十二月二十三日(陰暦十一月四日)及二十四日(陰暦十一月
五日)両日の東海、東山、南海各道の大地震大津波は強烈な
ものであつた。
其の時、三本松下の刈揃山が東西にわたつて長々と一大亀裂
が出来大口をあけた様になつたので、部落民は大変驚いたと
云う。(故久康善三郎翁の直話)その翌年の大雨の浸透によ
り、大崩壊を来たし現在の様な蛇紋岩石の赤裸々な山肌を表
はす様になつた。当時の模様を口伝による部落古老の語つた
ところに依ると
「大地震の時は軒の下に置いてある小便たごがゆれて中の
小便が皆飛び出してしまつた。」
「地震が有り山野鳴動する度に山々の鳥が異様な鳴き声を
あげて居つた。空飛んで居る鳥も地上へ落ちて来た。」
「大地震の時は部落の者達は皆家々から梯子を担ぎ出して
来て地上にならべ、其の上に板や筵を敷き夜通し座つた」
多少田野々部落とは距離が有るが大地震のことであつたから
当時の地震の模様は殆んど同じことであつたと思はれるので
丈六寺の旧記の中(勝浦郡志)から抄出してみる。
「嘉永七甲寅十一月初四日巳上刻。俄地震興常不同。凡震
動三四刻余(中略)于時五日夕陽至申中刻俄大地震雷動半
時余、地裂家倒。轟々山鳴谷響其音如崩凡可一時。或疑大
地変而為海哉。天地之変災不知其如何実是喪胆亡魂」云々
とある。
(喰田)
一安政元年の大地震は三日三晩ゆりどおしで民家の小便つぼ
の水はすべて庭にふり出されたもので部落民は地蔵堂に集
り避難したという。
(喰田部落年表)
大地震あり部落民は恐れて、集合心経を唱えた。
(平間部落歴史年表)
大地震あり便所の水が外へ打出し各所の藪へひなんした。
(日浦年表)
大地しんおこる。