[未校訂]藍園村志(未刊)には、安政元年の大地震について次のよう
に出ている。
霜月四日の暮れ六ツ前から西南高越の方面から地鳴がすると
思うと、程なく揺り出して、五日は最もはげしく震動数回に
亘つたという。徳命の徳元嘉平翁の話によると、四日は西貞
方に操芝居があつたので翁は見物にいつていたが、不意の事
とて芝居の中は大混雑、漸く逃れて徳命に帰り八幡神社の前
にかかると、轟然大音響を発して一丈七尺の大御影石の鳥居
は倒壊し、八幡宮を中央にして左右に並んだ牛頭天王・天神
宮の三社は見る間に揺りこわされた。此の震動が数日続いて
いる中に、貞方以東の人々は津浪を恐れて逃げ来り、地方の
者達は藪の中に避難し、野宿をして疲れた眼を開いてみると、
頭の上には霜が真白に降りていたとの事である。倒れ壊れた
鳥居は今も名残を留めているとのことである。三社が合祀せ
られたのは地震の結果であつて同年度のことであつたと云
う。当時の被害は田畑の亀裂と噴水・家屋の倒壊等であり、
噴水の高さは四尺以上に及んだとの事である。徳命大波止の
北約三町の所に深い亀裂が長く残つていたそうであるが、数
度の其後の洪水によつて消失したとの事である。貧富を論ぜ
ずこの時には飢餓に苦しんだとの事であるが、幸にして死者
は無く脅威と不安を与えたに過ぎなかつたとの事である。