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項目 内容
ID J1900272
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔鳴門市史 上〕○徳島県S51・8・31鳴門市史編纂委員会 鳴門市
本文
[未校訂]次は安政元年(嘉永七年―一八五四)十一月十四・五日の大
地震で、大坂にも大地震・大津波があり、撫養地方も大いに
震い、徳長から鯛の浜までおよそ二里ばかりの間、大地が二
尺程ずつ割れ、人家に洞穴があき、死人が多く、大地の割れ
目へ犬・牛・馬などが落ち込んで死に、これは稀代の珍事と
いわれた。津波が一丈四・五尺(四―五メートル)の高さで
撫養に襲来し、人家塩田は多くが浸水し、山西庄五郎の持船
をはじめ多くの船が破損流失した。被害の最も大きかつたの
は岡崎で、[潰家|つぶれいえ]・焼失も多かつた。浜御殿も焼失した。人々
は皆近くの山々へ避難したが、岡崎だけでも二〇人の流死が
あり、高島には一人(子供)の溺死者が出た。
大代村付近の被害については古老談として次の記録が残つて
いる。
安政大地震
安政元寅年(嘉永七年安政と改元)六月の中旬(十六日)
のころ、夜の九ツ頃―子の刻(十二時)八ツ頃―丑の刻(二
時)生れて始めての大地震で、夜中のこととて当惑して戸
外へ逃げ出しました。(家には居ることが出来ませんでし
た。)その年はそれから大早魃となり、草木は皆枯れまして
村人は一生懸命に雨乞いをしたのですが(その年は)十一
月まで雨がなく晴天続きで麦あいに畑へ出て皆留守のとき
十一月四日の朝四ツ時(巳の刻、午前十時)と思いました
が大地震があり、嘉久太郎は年十歳であつたから寺子屋師
匠平賀慶助方で手習の最中にゆり出したものですから六・
七十人の生徒は皆外へ逃げ出しました。私の家の前の門外
に長江新田の村へ注ぐ水道があるのですがその水が両岸へ
ゆり揚げ、堀の中には水がなくなりました。翌五日も手習
から帰つて昼支度をして門外に居た八ツ時(午後二時頃)
又々天地も覆える程の大地震があつたので、其儘麦蒔溝へ
倒れておりました。農夫も牛馬とも皆倒れておつたという
ことでした。しばらくして野から帰つた父母が本宅を見る
と、大破壊で潰家同然の姿となり、家族は皆寄り集つて籔
の中に居りました。未申(西南)の方向でドーンドーンと
地鳴りがしています。父から聞いた話では、昔、高知県で
大地震があつたとき地震で土地がゆれ込んで海となり立木
も今にその海中にあるといわれています。此処も海岸だか
ら海になるかも知れないと思つていると、大きなわめき声
が聞えて「津浪だ津浪だ」と叫んでいる。聞くより早く北
山の木津山や大代山へ家族一同が逃げ出し、祖母一人、下
女も一しよに大代山へ逃げ私共は木津山へ逃げました。(大
地震は何度も繰り返されたが十一月五日の烈震を代表して
「安政の大地震」という)家族一同が集ることが出来たの
は六日の夕でした。それから木津の長谷寺の庭前で半月位
居りました。帰宅しても宅へはいることが出来なかつたか
らで、本宅・土蔵・納屋とも大破し、門から乾(北西)の角
まで見通しとなりました。特に大困難したのは盲の人や、
年老けた人々で、地方によつては糞を運ぶ肥たごにのせ繩
で大木に括りつけて置いて外の家族は山へ逃げたところも
あるといいます。何分土地は裂け、古田分や川向新田では
土砂水がふき出して一円に川となり、誠に恐ろしかつたこ
とを子供心にも深く感じました。(古老談 大津村誌)
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-2
ページ 1806
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 徳島
市区町村 鳴門【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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