[未校訂](ぼっこう横丁)
安政の大地震
天災地変の少ないことは、岡山が日本一――、というが、大
地震は、昔から、たった二回しかない。前回に書いた札つぶ
れのときのが、その一つである。「岡山年代記」という本に
は、「……尾上町に死者一名、町うちの負傷者二十二名」、と
書いておる。も一つのは、戦災の翌年、昭和二十一年十二月
二十一日の午前四時二十分から六分間震源地は熊野灘ゆれた、あの
地震だ。あれでは、西署管内の福島・上伊福方面の被害が、
最も甚しく、「死者五・負傷者一四、倒壊家屋一四六」をだ
し、西大寺署管内では沖田新田の被害甚大で、「死者四二・
全家屋倒壊す」と報告してる。死者の数からいけば、この地
震の方が、安政のよりは、ひどかったと、言わねばならな
い。東警察署が、その被害報告を、してないところをみる
と、安政のが、岡山の中心地帯では、よっぽど大きかったも
のと、せねばなるまい。とにかく、死者の出てる地震は、ほ
かにない。
安政の時には、余震が一か月も続いたので、札潰れでうけた
衝撃を、さらに、余震が動揺さしたのだから、忘れるに忘れ
られぬ印象を、深く刻みこんだようである。地震としては、
たいしたことはなかったらしいが、そんなことで、安政の大
地震は、岡山の名物的トピック・ニュースになった。落首な
んかも、たくさんある。
安政静と、いわぬ先きから改元は、その月の二十七日だから、地震の折は、嘉永七年自身地震
より、口をあけたる、[床|とこ]の[建附|たてつけ]
安政に、なっても地震はおさまらず、いっそ、これな
ら、かええ嘉永でもよし
西大寺町の[新屋|あたらしや]治右衛門、略して「[新治|しんじ]」、という砂糖屋の
旦那が、
新治をば、さかさに読めば治新震地なり、今にびくびく、山
津本姓―止まず治右衛門
と、書いた自作の狂歌を、表戸にはって、商売を休んだ。そ
の廉によって、不謹慎なりとて、入牢を仰せつけられてる
刑務所行き
藤野町の、風呂屋の勝ツァンが、「地震万才」という地唄
生田(いくた)流「ご万才」の替え歌の歌詞を作ってる。
嘉永七年霜月、頃は五日の晩方、海上鳴りける大地震。腰
たちかねる朝より、水も逆まき、津浪も参り、まことに苦
しう候いける。ユリダシタラ・ドウショウニイ・ドロドロ
鳴って来た。西の田圃へ走りゃんせ。皆は河原へ逃げて行
く。藪の中へはいりゃんせ。逃げたる子供は泣く泣く、大
勢、小勢、娘も後家も何もかも、ざまを売ろうと、どうし
ょうと、かまわぬ、かまわぬ。広い所へべったりこ、持っ
たる茣蓙をひろげ、そこの子供は傍の方へ、よれよれ。ケ
ンケン言わずに、皆さんご免なさい。爺さん婆さん転ばん
すナ、もう小用をせんかいナ、みんな霜にうたれなよ。種
々に色々、あわれなり。
結構な、お小屋の建ちての後は、[夜着|よぎ]も持って来る、炬燵
もする、飯もたくやら、お[菜|かず]もたいて、げにも・[乞食|へいとう]の𥡴
古とみえ申す。
しだいに、おさまり、ぼっとり、ぼっとり、やんだ。ほん
なら、御暇申しゃんしょう。ゆりだしたら、また来んさ
い。門には、かどめげ、内らは往来壁地が落ちて、道路の如しそっち
も、こっちも、[御普請|ごふしん]、御普請。五両札新紙幣が、いかい要
ります。
この唄を読むと、戦災の時のことが、頭脳にうかぶ。この時
には、最初、船が一番安全、というので高い銭を出して借り
こみ、たくさん乗ったら、[海嘯|つなみ]の余波にやられて青くなり、
次は、竹藪が安全だと、ここを目ざして逃げこみだしたが、
狭いので、棒立ちの難行苦行に、弱りはてたそうだ。
……さて、不思議なことに、その地震のあった、あくる春に
は、一本の筍も出ず、ついに、誰も、食うた者がなかった。
竹の根が強いから、地震がゆりだしたら藪へ逃げこめと、昔
から言うが、安政の実見からいうと、それは噓じゃ。竹の子
が出んぐらいじゃあから、根が荒らされたのにちがいない。
危険だから、かならず、藪へ行っちゃあならんぜ……と、あ
る古老がよく話してた。