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項目 内容
ID J1900122
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔日高郡誌 上〕○和歌山県T13日高郡役所
本文
[未校訂]6 嘉永七年冬の大震及び大津浪
嘉永七年十一月四日・五日陽暦十二月廿二日同廿三日東海東山二道の諸
国より畿内・南海・西海・山陽・山陰諸道の地、大に震ひ、
大津浪を伴ひて瀕海諸国、夥しき災害を被る。家屋の潰滅す
るもの総て六万、死者三千と称す。是れ世に謂ふ所の安政の
大地震嘉永七年十一月廿七日安政と政元にして、四日のものは、同日朝東海道
海底に震源を有して紀伊より上総に及び、五日のものは、同
日夕刻南海道の南方海中に発して前日の継続地震と見做すべ
きもの、紀伊以西畿内中国四国の全部、九州の北半にまで及
べり。而して海岸線に並行せる両者の震源帯は之を延長する
時は互に接続す。蓋し此の両大震は、本邦に於て地震の活動
力を現時の状態に変易せしめたる一源因たり。又、其の伴生
せる大津浪は、両回とも我が国の沿岸のみならず、太平洋を
横断して、遠く亜米利加大陸沿岸に波及せりといふ、以て如
何に激烈なりしかを想見すべき也。本郡沿海にありては、四
日辰下刻激震と共に早くも海水の変調を呈せるを認め、老若
相率ゐて避難せしが、此の日は幸に津浪の襲来を見ず、人々
稍安堵してありし程に、翌五日夕刻過、昨に増して大きく且
つ長く地震ひて屋舎傾倒するもの相踵ぎ、須臾にして海底鳴
動して洪浪寄せ来る。第一波退いて第二波来り、第二波去つ
て第三波到り、更に第四第五等断続、数回に及び、第一波最
も強く、第三波之に次ぎ、第二波また之に次いで、第四以下
漸次其の勢衰ふ。今紀藩領内の被害を見るに、倒潰、流失破
損の家屋総計二万六千六百八戸、流死人員六百九十五名に及
び、惨状言語に絶す。本郡にありては、南部地方に於て倒潰
五戸、流失八戸、山内村は例によりて津浪の襲ふ所となりし
も這次は家居概ね海岸に遠ざかり居たれば流失二戸に止まる
(一)。切目地方にては嶋田村一円浸水床上に及べるが流失家
屋は一戸に止まり人畜には被害なし(二)。印南地方は依然被
害少からず、札之辻海抜三米余にて浪の高さ三尺余に及び、印南
川西岸の民家悉く流失、浜側は流失少数なりしも大破多し
(三)。日高川地方にありては、浪頭、新町に寄せ家中にて魚
躍るの奇観を呈し、北塩屋沿海の民戸全く漂没し、名屋浦の
民は多く源行寺本堂に避難す(四)日高川を溯る小舟は木葉の
疾風に散るが如く、岩内社前大野に輻輳して、或は傾き、或
は破る〔野口村誌〕吉原にては、洪浪、田井の切戸を越ゆる
に至り、避難せんとして、舟を西川に浮べたるが為め、却つ
て沈没溺死せし者あり(五)。西口地方にありては、田杭・方
杭・柏など無異、阿尾・産湯・小浦等は浪揚りたれど、流亡
の難なく被害の甚だかりしを三尾及び比井とす。三尾は、洪
浪激突の衝に当り、小三尾側殊に惨絶、浜出筋家屋残らず流
失し、漁船宮の鼻を流れ越す。大三尾側は浜端人家悉く浸
水、大破に及び、向筋悉く流失す。両部を通じて流失棟数四
十、流死女一、別に漁船の流失三十一あり(六)。此井唐子は
三尾以北に於て被害の最も甚だしかりし所、流失棟数二十
三、人畜の死傷なし(七)。由良地方にては、横浜・網代の被
害絶大にして、流死無慮三十名、流失家屋頗る多し(八)。吹
井浦にては民家二三戸及び牛一匹流失、字糸屋は浸水に止ま
る。大引・衣奈等には被害として挙ぐべきもの殆どなし(九)。
抑も嘉永の末年は、我が郡にとりて極めて多事の年なりき。
此の年六月激震ありて人人安き心地もせざるに、九月に入り
ては、露艦日高沖にあらはるゝあり、海岸警備に、避難に、
上下騒然、而も露艦去つて安堵の暇もあらせず、忽ち這般の
大災に遭ふ。民力の困憊察すべき也。斯くて年明けて熊野に
百姓一揆起る。本郡の如きは民心の大動揺を見るに至らざり
しも皆不景気を託つ。
(熊代繁里手記)
十一月四日 己巳執昨日冬至曇天辰の下剋、大地震ゆる事須
叟、人々家を出て道路にたつ、漸々にして止む。其後昼夜
をかけて四五度ゆる。今日朝より澳の[潮水|シホ]ゆくこと、いと
速く、[浦回|ウラ]の磯、須叟の間に見江かくれして潮[満干|ミチヒ]潮の高低八九尺
すること夕方まで七八度なり。然れども汀は常にかはるこ
となし。此日勝専寺の役僧、浦に出て潮水を舐り見しに呑
まば呑むべくおぼ江て井の水に[太|イタ]く異ならず、いさゝか[鹹|シホハユ]
きのみなりしよしかたれり。此潮水の動揺にて浦浪寄り来
んもはかりがたしとて、夙浦の男女衣食調度を携へ悉く猪
野山芝村の東にありてとりわき近しへ遁げ登る。夜に入り王子宮北道村にあり稲荷
宮南道村にあり秋葉宮気里村にあり鹿島宮海中にあり等に神燈を上げ人々参詣
す。もし夜中津浪寄り来んには近辺の岡山に遁ん為とて人
皆身装ひして家々に飯を炊ぎ行厨の用意を為。
十一月五日庚午破 ツチに入る、晴天申時大地震ゆる事甚し
く、家を出て道路にたつに、たちかねて転ぶばかりなり。
須叟して海底鳴動して津浪寄せ来り、(南道村の浦にては、
稲荷宮の石段一段漬り、埴田村にては椿阪日の往来の道を
越江、南谷の田地七八分漬り、山内村にては中内まで寄せ
たり。大河辺の左右の田に鱸・鰺其外海魚どもを拾ふ。)
白浪大川を泝ること雪の如し。然て[引退|ヒキ]たる時は平常の浪
打際より沖へ去ること凡一町ばかり、又寄せ来り、如此す
ること三度なり大なるは三度なれど小きは数度に及びしよしなり。猪野山上にいへり上城
吉田村の東の岡なり高見の岡墓所なり北道村にあり法華寺の岡北道村にあり字にて寺はなし等
へ郷中の人逃上る。予は法華寺の岡に居明す。今宵は仮菴
だにせねば、霜いたく深くして衣を沾して堪へがたし亥の
下刻、また大地震ゆる、昼のよりはいさゝかおとれり。終夜
小きは数へもしらずゆる。此日地震にて倒れし家五軒芝村にて
丹波屋金兵衛・岩代屋茂兵衛また定吉といへるものゝ家、夙浦にて半右衛門の家また何とかいへるものゝ家津浪古老の云伝に
井の水干るといへれど此度の地震には井の水干ずされど濁りたり。又浪も前条にいへる処まで寄せたるのみなれば、さのみ遠く
逃るに及ばざりしといへども是かろきゆゑなり。如斯有とて後人心をゆるすべからずにて流失の家八軒埴田
村にて坂口の重兵衛の家また嘉吉・惣助・喜平次・友七等の家山内村にては治右衛門・弥助の家夙浦にて吉郎兵衛の家等なりな
り。又庇落ち或は傾きたる家、または納屋蔵等倒れ、或は
流失せし十余軒もあるべし。田畑の荒は山内村にて床土流
失・作土流失・汐入等合て四町余、麦生損亡二十町余、東
岩代村にて作土流失五反五畝余、麦生損亡二町四反五畝余、
西岩代村にて作土流失一反三畝、麦生損亡五町七畝余、埴田
村にて損亡三町余、気里村にて茶屋橋此橋津浪にそこねたりの辺にて
作土流失一反等なり。夙浦にて漁舟並に漁網の流失あり。
又後日に埴田村なる枇杷山の樹残らず枯れたり、浪にひた
りしゆゑなるべし。然れども他所に比ぶればいと平穏な
り。此の地かく平穏なるゆゑよしは、宝永四年十月四日津
浪云々(中略)当時山内重賢が記せる書、鹿島宮神殿に納
めあり。其の先蹤によりて、此度もおなじ神の守護によれ
るなり。其の証徴は申剋津浪寄せ来んとするときばかり、未申の方の
海上に火柱たつと見しに、忽津浪よせたるを猪野山にて前の
四日に逃げ登りしまゝ今日まで居たる人の見しに、かの大浪、澳より寄せ来り、鹿
島の御山にあたれるが、大炮の音して二つに破れ、彼の宝
永の時の如く大小にわかれて大なるは田辺澳へとゆき、小
きは此浦によせつと語れり。夜に入り、右の御山より神火
大さ遠見鞠の如し出て海上にうかび、守護し給ふこと終夜なり。此
日芝秀恭主本時の公文所にて通称健蔵といふ明日官の免定貢賦の御定をたばらん
ため出町為すて、堺村まで行て同伴の村長熊瀬川村惣兵衛・高野村伸蔵・平野村忠右衛門
島の瀬村清右衛門等なり清吉といふ者の家に[休息|イコヒ]居しに、申時ばかり
大地震ゆり出し、大地も裂るばかりなれば、大に驚き家居の
安否を思ひわつらひ引かへさんとせしが、官辺の公用、然
ておくべきにあらねば、いかゞせんと進退せまり途方に暮
れしが、希代の珍事なれば猶予すべきにあらず、此大変に
ては官庁にても公用とりあへたまふべき際にあらじと決心
して引返しに、村長の中二人は、このよしことわらんため
田辺へとゆき、残れる人々周章ふためきながらおのれを[輔|タス]
[佐|ケ]てかへりしに、堺村の潺湲の橋の辺にて、大炮二三発せ
しが如き音ひゞくを聞くやいなや彼の小川に津[浪泝|サカノボ]流り来
て股をひたすばかりなれば、往来の道は行がたく、猿神の
社の片方の山方をつたひ、平見埴田村の丘山をこ江墓所埴田村の側へ
出しに、椿阪口は潮水溢れて海の如く逃散の人の叫喚おび
たゞしく、かくては己が家も既に流れ失せつらんと、いた
く[長息|ナゲキ]つゝ足を空にてかへりしに、家居はこゝかしこ地震
にてゆりいためたれと、させることなく、家人は、はやく猪
野山に遁げ登りて六日の晨にゆきて見しにあまおほひだになけれは蒲団に霜いとふかく沍て寒気甚しく母を
はじめ妻子のぬれそぼち、わびゐたるさま目もくれ心もき江ていとかなしきさまなりき。猪野山の小家に同居せしは、鈴木氏家
内、山羽氏家内、藤兵衛家内、其外平常恪勤のものとも合せて五十人ばかりなりこの小屋ひきはらひしは十二日なり平穏
なりしは、いと〳〵うれしかりき自は官の旧記書紀をはじ
め家居並に重器等をまもらんため本宅の北面に小屋をつく
り居たりしは、古来未曾有の事なりきとかたりき。又同氏
には、十一月十二日猪野山よりかへりてのち、再び後園に
小屋をたてゝ翌安政二年の春夏までも婦人童児は其処に仮
居せり
十一月六日 辛未 危晴天(ママ) 暁霜ふかきこと雪のごとし。猪
野山・上城・高見の岡等の所々小屋つくり為。予は高瀬久
助の家内、田島東作の家内と一つに居る。今日も小き地震
数十度ゆる。今宵も彼の神火あらはれ給ふ。今日聞きしに
芝村の地士鈴木村次、芳養浦の口前所に出役してありしに
津浪に溺れて死すと。後十余日を経て屍海渚に上れりとぞ
十一月七日壬申 成曇天 今朝開くに五日の夜千里の浜
の王子宮堅くさしたる錠、自然に開きて此処よりも神火現
れ此火川口八王子山の半腹にかゝりて守護ありしと人々に
きけり
十一月八日九日十日まで仮居して余は十一日の午時より帰宿
す。されど尚野宿せる人々多し、残らず引はらひしは、晦日
がたなり。八日より後は、日に十度七八度五六度と次第に減
じて十二月末には日に一二度ゆり、安政二年正月五日申時ゆりしは、い
と大なりきもをり〳〵ゆり四月に至りて尚も小地震ゆる朔日戌下剋ゆりし
は、又大なりき右鹿島の御守護、灼然たる事は、上にもいへる如く
なるを、尚又五日の日芳養浦の漁夫おのが業せんとて此島の
辺にありしに、かの大波に驚き島の浜に上り御山に逃げ登り
しに、かの高波この浜をだに越さず船も平穏なりしとぞ。ま
た十一日頃にやありけむ岡崎松樹通称才蔵鹿島に渡り、参詣せし
に、いと古き神殿にて、さらでもかたぶき易かるべき様なる
に、つゆばかりもかたぶかで在りしとかかたれり。又十六日
には郷中御礼参り為るに予も埴田村なる鹿島宮の摂社世俗に拝殿と
いふにまゐりしに、此所の長床いと古き瓦葺のそこねたるがう
へに松の落葉つもりていさゝかの風にも吹きおとされぬべき
さまなるに、瓦も落葉もすこしも落ちず有りき。此をもても
此神の御稜威いと〳〵かしこくおぼ江はべりぬ。
この高波鹿島の山にてふたつにわかて、みなべの浦に
はいさゝかばかりよせたるのみなれば、いとおだやか
なりき。これ宝永のためしにてかの島うしはきゐます
大神のみまもりなることいちしるくいと〳〵たふとく
おぼ江はべりて 源朝臣繁里
玉ちはふ神のみいづはたかなみのかゝるをりにぞあらはれ
にける
大波をせきとゞめしやことむけのかみよながらのみいづな
るらむ
かしまがた山より高きたかなみをくゑはらゝかし神ぞしづ
めし
みなへの浦残る家居やまれならむかしまの神のまもらざり
せば
(勝本源太郎覚書)
十一月四日朝五ツ時頃大地震一時余り震り此時西磯之汐さし
引二タ時計り之間数度さし引あり。此地震は六月の地震より
遙か厳敷歩行難出来、印南之川は石垣之天迄汐満之故恐て家
財を遠方之高き所へ持運び、家内を片付、用心致居候処、翌
日も津浪不上候故又々持帰り候処、五日之七ツ時頃大地震是
又一時余り震り詰め、天地も一所に成るかと思敷位之大地震、
高き石垣之地は所々二三寸許胼割れ、地震終る頃より大海西
之方に当り大筒続け打之如くドン〳〵と鳴る音実に大筒数百
挺も続け打如打半時計土佐国遠のつろに当り鳴る所東西凡三
四町程之間黒煙立ち上り誠に肝を挫ぎ昔合戦に用ひ候地雷火
といふ物は斯くあらんと驚怖して見居る中に海上如池の浪鎮
り浪打際より廿間許り沖の方大なる渦まきて次第〳〵に汐重
高くなり、暫時に磯辺は山の麓二間余り汐上り川へは浜より
汐乗り越江嶋田村は一円汐込み入り家は畳の上までつかり候
へとも一軒も流れ申さず、人民一人も怪我なし、家は少々づ
ゝの破損のみ也。同村に納屋と申て川口の北に浜の中に竹籔
あり此籔之内に宮井六之丞と申者往古より此処にて住居致し
候家一軒流失致し人は前刻退去り候に付人々別条無之、牛は
難儀致候へとも嶋田より助け帰候。扨嶋田村枝郷中尾の下金
毘羅山の社あり、此社段迄汐高く乗り、夫より光明寺之石垣
に打付け村中へ汐さし込み浦中之浜打越より川口迄総一面に
汐越込之せと川加淵田辺まで汐差込之為是東低き田地五六枚
汐にてつかり候迄也。本村の浜はクイシの辺より打越辺まで
は浜中程迄汐上り、本村中の人民不残上道之畑へ退行、畑に
て一夜明し候処、其夜四ツ時頃又々大地震是は津浪前より厳
敷一時余り震り詰め、地も破れるかと覚い恐れ生きたる心無
之翌六日一統申合思ひ〳〵に畑へ小屋掛けして十四五日小屋
住居致候也。扨五日の夜四ツ時頃より昼夜十四五度二十度程
づゝ三四ケ月も震り詰め、夫より次第〳〵数減じて翌年一ケ
年余り昼夜度々震り候也 誠に恐るべし〳〵
(森氏記録)
五日申中刻頃より大地震有て人々驚き仕案之内酉の方天に響
き大に鳴や否引汐無之津浪揚来て満引数度有り暮方に湊半分
干て大成浪揚来る但浪之高さ札之辻にて三尺余、恵比須之社
階之二段余、印定寺門之柱一尺二寸余浪先き椎之木前迄浜側
家少々流失、大破多、川之両側家不残流失、尤本郷分橋南詰
に破損家一軒残る、且又廻船磯場漁船流失並破損等数艘有之
候得共流死之者一人も無之皆山上に逃上り命助り候此故者、
今年六月十五日未明の地震に驚き、是津浪と申立、其節より
宝永四年亥十月四日之津浪に流死人多有之由別紙写之通印定
寺石碑に書記し有之事を見出し相心得候も全く氏神の御蔭
哉。其節他所江出有之候船手之者共に至迄一人も無怪我難有
事に候何時にも大地震者忽津浪と心得高き処に逃去事肝要
也。併し天晴て海は別に不変、浪不折、大木に川之堤切れた
る如弥増揚る。印南湊に繫船羽網場者吐汐に破般、湊中の半
より西に繫船少々残る。右者為末世、助命の有増短文に記し

右之津浪日段 従紀州奥熊野伊豆辺は四日朝地震大津浪其
響き地震此辺迄浪先き少し揚り満干之気差有之、不審に心
得候処、当辺五日晩方大地震津浪也此日段之争は無之様記

(浜ノ瀬青年会場の石碑津浪之紀事)
後世もし大なる地震の時は、必ず津浪起ると心得て浜中の人
々は大松原の小高き所に集り居るべし。さあれば高浪の患へ
はた地震の恐れなかるべし。舟などに、遁んとなすべから
ず。諸人此事をゆるかせに思ふましきもの也。
因に曰、嘉永七寅年霜月五日の大地震つづいて津浪起り来
れり初め地震を避んとして、舟に乗り川内に浮び居し輩沈
没せしこと誠歎し。よつて後世之為に其あらましを録し畢
りぬ
♠文久壬戌のとし夏五月良日
木村理三郎
藤井 瀬戸佐一郎義健建之
(西清右衛門覚書)
四日四ツ時大地震、同時東海道筋当国熊野浦々潮岬串本前浜
迄大変之津浪高揚り浦々民家大破損居家潰れ流失諸品色々筆
に尽 難く流死人数多く有之、東海道筋殊に居家潰れ焼失数
知れず人多く死す。同五日七ツ時大地震鳴動き別段厳舗誠に
恐ろしき即座の急難に一同肝を消し驚き騒ぎ、誰一人老若共
家に住居事難出来、逃出驚入折柄、未申の方空中鳴動く、其
音山も崩るゝ地もさける如く天地渓海一度に鳴響く、其恐ろ
しき有様生死の堺驚入る処即座に沖合より津浪高山の如く寄
せ来る火急の折節家内子供老人親子之差別もなく散々に高地
に遁揚一命を助り親は子を尋ね子供は親の有所を尋合誰か一
人泣き慟かぬものはなし。津浪満ちたる汐水の引き帰す其音
と数千人数の泣声蚊之泣如く一同に響く時の声誠に恐ろしき
事三ツ子迄も真実より念仏申さぬはなし。津浪高揚地方三丈
余、浜端之居家納屋諸品不残流失す。引汐の底にて当浦中に
汐水少しもなしに干る折はへの島根本迄見へる。其時亦肝を
潰し、津浪引勢に寄せ来らば高地にても助命不叶と家財品々
は一同捨置き高地に逃揚り驚き入り候へども、段々浪静まり
村中一同其夜中より家内野住居一同に足腰は立たず。寄合ひ
重合ひ一に泣く計り口に湯水も通らず、誠に浅間舗有様也亦
其夜四ツ時大地震格別厳敷鳴動き御座候得共津浪揚り和ら敷
少し安堵仕候得共何時即死する事も計難生死の堺驚き案じ、
一同野に伏し泣き暮す。其折節は神仏より外に便る者無之、
真実より念願計り其夜明け漸々親類家内面々災難之差別相分
り候得共村中大荒往来難出来御座候得共追々近村の困難も相
聞江、其当座のみ浦々一同野山に住み、村中往来留め村堺に
て村々昼夜張番旅人入込事無用当時差支たる品は、蠟燭に燈
油、難事の節余計に入用の品、火の元要心は毎夜六人宛立
番、其節村々十日程野小屋住い。当浦にて津浪流失の品居家
納屋棟数四十軒、流失漁舟漁船三十一艘流失、村中半分通り
浜側家別大破損、浜方諸職品々半分迄流失破損する。其後地
震昼夜鳴動き止み難く、二十日程の間、家業難出来、明暮百
事手に附す、一同欲徳を忘れ生替りたる心地にて候。其節津
浪高揚り、何国にても入海・川筋・別段厳敷、沖合和ら敷、
海上渡海の舟無難に凌ぎ候由。五日の津浪、其日和田浜に魬
大漁あり、当浦魚船数艘積入れ、地震前に乗出し候処、舟皆
御崎沖合江津浪荒汐に引流され、地震津浪大変を沖合にて凌
ぎ夜を明す。後、無難に帰舟仕、地方の大変を見て、大に驚
入、右魬積舟は水主一人も上登る気無之、一両日荷物生魚乍
積沖合江懸置、滞舟、夫より無拠賃銀を極り一人前上賃四十
匁、舟賃も右に応じ、右折節之事故積入員数も不足に相成
り、買人者内は皆損徳なし云々(中略)附て当浦津浪古今之
大変高揚場所有様際限左に記す。寅ノ霜月五日七ツ時之津浪
高揚、地面にて三丈余の積り方当浦の宮の森木の枝に流失の
品懸り流失の船この崎の鼻流れ越す。小三尾側厳敷、浜出筋
不残流失、宮の森近所津浪揚際限四郎兵衛居屋敷の石垣迄、
下すじ橋の川迄、平一面の海に成、川筋は長太夫の突納屋を
浪打越候。大三尾側は小し和ら敷浜端居家、家別津浪の汐に
漬る、居家諸品大破損、向筋居家納屋不残流失、川筋、西は
嘉吉・清右衛門之浜添田地迄汐揚り麦毛荒る、東川伝ひ山野
の井戸端迄汐揚る。家別小屋住居場所者片山御宮の尾の畑
地、小三尾小屋場所者法善寺近所松葉の畑地、光明寺の近所
は薬師の台、右所々にて暫く野山小屋に住む。其後亦暫く光
明寺本尊附物品は片山与右衛門方にて守り奉る。寺内は汐に
漬る。崩れ側津浪揚り際限者山艘根限り迄家別汐に揚り籾米
漬け候家々も有之、其外近浦々日高川筋別段厳敷、和田吉原
筋和ら敷御座候。安政二年卯の年迄震動鳴響き昼夜止み難く
折々驚入る事有。
(竹内伝七覚書)
十一月四日午刻過、大地震にて大きに打驚き家之内に居る者
一人も無之皆々外面へ逃出る。扨又海は浪立大あびきにて網
代札場へ浪打上げ皆々をどろき家財衣類抔山之上又は里村な
どへ持運び、或は蔵二階などへ押込其用意いたし、其日の夜
は寝もやらず居候処、扨又其晨五日の早天より誠に天気は青
天にて実にびんの毛も動かぬ位天気上日和にて世上の人気も
直り活返る心地して先安堵いたし候故又家財衣類取戻し片付
安気にて悦び祝ひ候くらゐの処に、今日は如何なる悪日ぞ
や。五日七ツ申の刻天地震動、大地も既にゆりこむかと案居
候所へ大木土塀壁などくづれ落、誠に〳〵恐敷事たとふるに
物なき大騒動也。とかうする内はるか沖の方にて大筒の放つ
音して火の柱の如き光かゞやき、小山の如き大浪またゝく内
に寄せ来る。扨其先より家内相片付、蔵へ家財皆つめ込置、
けがなき様にと畠中に家内中出て地震除け、皆々顔見合居る
中、早や裏河江浪打寄る音に驚き大きに周章さわぎ取物も取
あへず東をさしてかけ出し、背をかへりみれば、新田かわ居
家皆々山の如き大波打込み黒煙立登ること誠に目覚しきこと
又恐敷事言ふ計なし。其物音は大竹藪に火の付たるように、
鳴響き、さながら絵にある雲竜のごとく相見江候故二タ眼と
も見やらず、東をさして延逃、よう〳〵御宮の社壇の上へか
け上らんと石壇六段かけ上り候所、早くも汐足許迄打寄来り
とかうする内社壇之下は汐まん〳〵とたゝゑたり。早や日も
暮に及んで何が何やら闇夜のことなれば親は子を呼び子は親
を尋ね、眷属ちり〳〵ばら〳〵にて宮の御山は只蚊のなく如
く、けんそ難所ときらひなく、はひ登り木に取付すがり月影
にて新田河筋を打見れば、哀なるかな、数代建並べたる居宅
建もの一所も不残流失、荒磯の如くなる。今日今宵は誠に如
何なる大悪日ぞやと十方に暮れて居る処、又々地震しきりに
て、今は早や覚悟を極め此まゝいとゝ長夜もいやましに夜の
あくるをぞ待けるが、程なく鶏鳴の声きこゑ、夜もほの〴〵
と明にける。扨又夫より先山にて家内の者にも尋あひ、歎の
中にも互に悦びあひ候処其内子供二人相見江申さず候へとも
是は日之入らぬ先から吉地迄逃行候様子も粗聞江候故安心致
居候て夫より又々親類中を相尋候処、内四人相見江申さず、
夫から地下中を一見仕候処東出北出にて都合十四軒と光専寺
の本堂計相残誠に〳〵目もあてられぬ村中の有様也。よう
〳〵荒跡見廻りみんとわれ芥の中をふみわけ、居宅の跡へ行
きみれば、只そここゝに礎のみぞ残りて、あはれといふも中
々に愚なり。諸道具などは足許に散乱いたし候へども其一両
日の間は誠に十方暮、無欲世界とやらにて一向手にふれず。
まだどうなることか不知とうろ〳〵してゐる内、米麦・籾・
小麦・大豆の類亦々衣類少々づゝ見当り、先俵物を人足入取
拾ひ、俵物はあれ跡にて其儘干て御上の御見分受、よう〳〵
野はへにして片付、又着替類は付合又他所の親類にて世話に
相成候。且又其比一両夜は奥の方へ逗留仕候へとも、勝手は
悪く候故、其後は栖原屋甚七に相談之上にて社段のすみにて
板囲致し四五日雨露をしのぎ夫より東甚七方は浪入計、家に
は別条なき故、先夫にて十二月中旬迄同居いたし、同月中頃
より住宅へ移り、どうやら雨露をしのぎ暮候て明れば安政二
卯の春にも相成扨早く家業に取掛り仕なれし業にて紺屋職を
はじめ、よう〳〵世渡りの緒に取付候位のこと故誠に〳〵難
儀至極の有様は中々筆にも紙にも尽しがたき事に候へども若
も子孫相伝り候はゞ末の世にてもかやうなる大変地震などの
時は必々此一巻開見て心得手廻候はゞ大きに助けにも相成候
事なり(中略)初度と二度目は波高く、次第にやさしきもの
にて七度もさし引有之候と相見江候(下略)
(上山源兵衛覚書)
十一月四日五日諸処地震・津浪の節当浦も地震少し津浪にて
当社弓場其他所々山そへなどへ野小屋をかけ、十二三日程小
家に居候内米屋売切れ、諸人大に難儀致候節手前より夫々不
作之者へ見廻として白米一升宛為持遺候控(中略)〆五十八
軒、見舞廻人権助・仙次郎・与兵衛外米荷ひ二人三尾川は荒な
し。当浦は口前役所には塩入、当家門前まで川より廻り塩
入、川向吉次郎田塩入、其外少しづゝ塩入、地震は十二三日
迄時々ゆり候へとも、小生御宮にて御籤、極楽寺にたばらせ
候処、最早おたやかなる方の籤に候付夫より野小屋仕廻、皆
々かへる。十一月五日御宮扉開き両度〆る。氏下一統無難に
て大に難有横浜網代大流れ云々
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-2
ページ 1602
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 和歌山
市区町村 御坊【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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