[未校訂](文書)○和歌山県印南町
嘉永七年きのとの寅十一月廿二日書
つなみごとはじめなり
いろ〳〵ふうしぎどめ也
日高郡印南浦
桶屋与平
忰戎屋楠次郎
十二年
津な三ノ事をかきをき候
一嘉永七年きのとし寅十一月四日の事
尤此年ニ安政元年ト相かハる
一四ツ時分より、大じしんあり、それより
一川へすゞなみとゆう、なミが入こみ、これ
一あり。又その夜ハ中じしん九のつ
一ゆりた。それから夜あけニなりた。
一同五日の日ハまことニよき天きニあり
一候ゆゑ村の人がみなよろこびして
一山口のみやへまいるなりわしもまいた
一うちへもどうて八つじぶんから又又
一大じしんゆりだしてその日ハ。はたし
一ざきの方が大きニかみなりのようニ
一なりてきてそれより津なみが入て
一きた初ハ小。二つめハ大。三つめハ大。四つも大。
一もうはや日も入村の人ハ。よがい山ニてその
一夜あかすその夜ニハ。中じしんゆり
一どうしなり
一又六日の日ハよろしく天きニあり
一候えども村ハせんち(ママ)もみそもをなじ
一事なれども。内ゑようこずまだ中じしん
一小じしんが。ゆりどうしなり
一それゆえよがい山で十六日いました
一これを書をき候
一又井どの水もあり又川の水もあり
一候ゆへなニぶん大じしんゆりたら
一はよう。よがい山えにげなされよ
嘉永七年きのとの寅十一月廿二日書
印南戎屋の事を
桶屋与平とこれあり
忰戎屋楠次郎
書印をく事也
そのとき楠次郎十二才なり
右の通此年ニ安政元年寅の年ニなる
又このときのつなみしをたかさふだばの
つじにて三じやくれ(水カ)ありまた
宝永四年亥十月四日正午ニ大地シンニテ津浪ナリ其節の津
浪汐の高サ御札場の辻ニテ六尺五寸有之候ト聞ニ取置候也
付テハ右津浪ヨリ嘉永七年きのとの寅十一月五日の津浪迄
は百四拾八年度々有之候尤嘉永七年寅十一月五日の津浪の
汐高サ札場の辻ニテ弐尺六七寸ニ有之候然ルニ右弐度の津
浪来ル日は不ジョ日ニ限ル右の段御心へ(心得)の為扣置
但し是ハ跡ヨリ拙者森宇兵衛殿ニ聞ニ(ママ)取尤此人は八十七
年ナリ拙者ハ四十九年ナリ尚又跡々ノ為ニ書印添置候
ナリ
○付テは右ノ森宇兵衛ト申人ハ八十八才ニテ明治廿五年旧
六月廿五日ニ病死致ス 長三郎五十才ニテ書添置候ナり
信誉源序代
一大地震ニ付当山庫裏普請并ニ津波之事
一嘉永七年寅六月十四日夜八ツ時頃地震夫ヨり十五日夕方迄
凡数九ツ斗リユリ候印南ヨリ東西山口マテ牛并ニ諸道具抔
預ケニ参リ其節ヨリ七日程少々ヅゝユリ其節ゟ何事も無候
又候同年霜月四日朝五ツ半時大地震誠以家之内ニ居ル事な
らす亦候翌日七ツ時頃殊之外大地震津波と諸国海辺ハ人も
少々死ス事数多有之家其外破損仕候印南本郷坂本は大流れ
其時当山之庫裏古キイエ大イニ破却シ翌卯年に木寄致普請
ニ取懸候辰四月三日ニ上棟并餅投興行仕候
一庫裏造作は元治元年甲子年成就仕事
世話人
為助
内陳ノ上 甲子六月
一組天井 奇進 惣旦方中
一木魚一具 奇進
有田金屋邑
橋本新右衛門
右は信誉源序有田住居已前ヨリ親分
信誉源序奇進左之通り
一如来前宮殿并蓮台トモ
両菩薩箱台茶湯ダイ共
一天人欄間 細工人
京都仏師
奥田善之烝
慈覚大師御作
一地蔵尊損ジタルノ本寺ヨり戴キ再建也
同厨子京都奥田ニ而新調也
一釈迦如来 細工人 同郡丸山ノ仏師
一如来前江花瓶壱対
一同前机壱却(ママ)
一本堂ヨリ廊下前ら戸三本
一如来前常掛ノ御戸帳
一本金本紅粉小打敷
当国有田郡石□大乗寺廿三世利誉上人善序大和尚弟子同末
山小川村薬王寺ニ而十九年及住職其後加永壬子十二月四日
当山江入院
♠信誉証阿如是源序大徳霊位
此人出生ハ当国田辺南新町
堅田屋佐七世伜
維時元治元年甲子大呂吉辰認之