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項目 内容
ID J1900117
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔大阪府・和歌山県沿岸における宝永・安政南海道津波の調査〕羽鳥徳太郎 地震研究所彙報55号(一九八〇)五〇五頁~五三五
本文
[未校訂]○湯浅
安政津波では湯浅で二八人の水死者を出し、安政三年に町
内の深専寺山門前に記念碑が建てられた。それに「この後
万一大地震ゆることあらハ火の用心をいたし、津浪もよせ
来るべしと心得、かならす浜辺川筋へ逃けゆかす、深専寺
門前を東へ通り、天神山へ立ちのくべし」とある。
○印南
安政津波については、印南町本郷の吉田家土蔵の腰板に記
録され、蔵がとりこわされる前に読みとられたものが〝印
南公民館新聞〟(昭和二六年十一月一日)に次のように記載
された。
「嘉永七安政元寅歳 かめや弥兵衛
右は書置之事、扨、寅六月八日大志しん並、すず波(津波)
扨又、十一月四日には、俄に大つなみ○○(二字体不明)
川口より、はしつめ(橋詰)迄、皆なかれ家は八幡様前
へ、坂本本郷、皆家なかれ候、其時、東宮の上へにげ、寔
になんぎ致候、扨、浜方も皆々なかれ、光川、字杉、上ケ
(地方)三ケ村は、波はいり候共、残り候。
其時、此蔵は残り、そのあと皆なかれ候、此蔵は、むね切
(棟ぎり)つかり候、○末石、家、石かけ(石垣)皆なかれ
候扨、手前志らせは六月八日、大じしん、すず波御座候其
時、ゆだん致、皆なにもかもながし候、扨百八十年載めて
くるとの事、手前ニハ、志らせ御座候。その時なにもか
も、○此上へあがる可候。其時、諸村ニ人志に御座候。先
々、何分書置之事。慶応○載八月八日」とある。
また桶屋与平の文書には次のように記されている。
「山口しみやへまいるなり、わしもまいたうちへもどうて
八つじぶんから又又大志しんゆりだして、その日ハはたし
ざきの方が大きく、かみなりのようになりてきて、それよ
り津なみが入てきた初ハ小、二ツめハ大。三つめハ大。四
ツも大。もうはや日も入、村の人ハ、よがい山ニてその夜
あかす。その夜ニハ、中志しんゆりどうしなり」。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-2
ページ 1595
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 和歌山
市区町村 和歌山【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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