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項目 内容
ID J1900115
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔田辺文化財誌〕○和歌山県
本文
[未校訂](新庄町における安政、南海、チリー地震による津波の高さの
測定)吉信英二著
Ⅱ 安政地震津波(一八五四年十一月)の口碑に残る
地点の水準測量結果
安政の津波はすでに百年以上も経つていますが次の四点が
はつきりと口碑に残つていました。
1 新庄町長井谷橋本新一郎氏宅の前庭に上る石畳の小さい
坂の中程の一点同氏宅は北原の丘の麓斜面にある。
測量した潮の高さ……七・七九四m(平均水位よりの高さ
以下同じ)
附記 安政地震津波は水平的には、同氏宅から谷に浴うて
三〇〇m位東方の瀬田氏宅あたりまで上つたという昭和
二十一年の南海地震津波は橋本氏宅下方麓の田甫東岸で
二・九四四mを計測した。勿論橋本宅は全然浸水しなか
つた。
2 新庄町西跡の浦塩崎幸夫氏宅裏山の田井部落え通ずる小
径の一点 測量した潮の高……一二・七二四m
附記 南海地震津波において塩崎氏宅附近の潮位は三・六
二四mであつたから殆んど天井近くまでつかり今も被
水線は、はつきり残つていた。チリー地震津波は防浪
岸壁のために何等被害はなかつた。
3 新庄町東光寺え登る石段の下から二段目。
名喜里から跡の浦え越す小さい坂を俗に堂坂といひ、東光
寺は堂坂から石段を築いて本堂に通ずるのであるこの石段
は安政津波以後工事を加えたのでどの段であつたかはつき
りしないが東光寺今西老僧の話から推量して下から二段目
と三段目とを計測した。二段目で測量した潮の高さ……一
二・六三九m 三段目で測量した潮の高さ……一二・九五
九m
附記 口碑によると跡の浦から来た波と、名喜里谷から押
し上つた波とが、ここで合したということである又西
跡の浦塩崎氏裏山の口碑による計測値と東光寺石段に
残る口碑の計測値が殆んど近似している点と両地の地
形及一万分の一等高線図(堂坂は一五m以下の高さ)か
ら推断して、大体この口碑は正しいものと思はれる。
安政津波は以上から察して、あの波の高さでは跡の浦
全部落が冠水、大害を受けた事が想像できる。南海津
波では堂坂下の津波標では三・五七六mであつた。
4 新庄町内の浦花村吾之吉氏宅え登る段坂の一点
同氏宅は平地から急立した丘の斜腹にある。測量による潮
の高さ、
安政津波の高さ……八・四三七m
南海津波の高さ……五・六二二m
附記 両回とも殆んど全部落浸水したがチリー津波は防浪
岸壁が出ていたので全部落全く浸水せず。防波堤外の
田が被水しただけである。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-2
ページ 1593
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 和歌山
市区町村 田辺【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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