[未校訂]一十一月四日己巳 晴 朝五ツ半時大地震、此度ハ夏の時よ
り余程強覚ゆ尤先頃より以来少々宛の地震ハ度々在之候得共格
別驚へき程ハ無之、十月四日朝六ツ時過に大分強くゆりた
り、然れとも当日にくらふれハ物かハと思ふ斗也、同日八
ツ時半又々少しゆる、其間にも少し宛しかと覚へぬ斗成震
ハ二・三度も有たるよし、先所々崩家破損所多く、西成郡
の惣社座摩宮の石の鳥居倒れ、石燈籠砕け、京町堀羽子板橋
ニて壱長屋崩れて焼出るゆへ火役の者打消たり、同南国橋
筋籠屋町西南角間口十六間斗崩、江戸堀犬才橋北詰東へ入
家一軒崩、薩摩堀願教寺堀内対面所崩れ、同うら手長家廿
軒斗崩、阿波座やぶの横町西側五・六軒崩、立売堀中橋筋
南北角屋敷崩、幸町東樋ゟ南入家二三軒崩、堂嶋桜ばし南
詰西入家五・六軒崩、福嶋荒神前家一軒崩る、同五百羅漢
崩仏像悉く崩、同天神表門崩、天満梅かへ寺町行当正□寺
境内金毘羅社絵馬堂崩、福島中の天神本社拝殿共崩、同所
下の天神絵馬堂崩る、又天満天神社内井戸屋形崩る、中の
島延岡屋敷・鎮寺八幡宮絵馬堂崩、北久太郎町丼池筋北西
角一軒隣一軒崩、其北隣半分崩、長堀御堂筋北詰浜西入北
かハ納屋并裏借屋五・六軒斗崩、平野町御霊社井戸屋形崩、
南御堂高塀崩、本町狐小路浄久寺西手横塀崩、淡路町中ば
し辺大道われる、塩町さのや橋筋東北角ゟ北へ町境目まて
高塀倒れ、宮参りの女子を乳母抱きて塀に打れ即死す、
是等ハ忠死と云へし高原牢屋敷前家一軒崩、西高津新地御
蔵跡辺土蔵一ケ所崩、永代浜ニてほしか蔵一戸前くつる、
天王寺清水舞台崩る、右の外所々崩家等可有之候えとも大
略見聞する所斯の如し、いつれも四日朝の節なり、其余破
損所は所々在の別て西辺殊の外厳敷ゆら(り)に覚ゆ、阿波座辺
にてハゆかミたる家々多く無難成家ハ少し故に、戸障子菱
形にゆかみ開事成かたき故、路次に畳を敷なとして夜を明
し、或は椽に居を移しなとする様ハ出火の時の如く、東西
に奔走し家財諸道具を持運ひたり、過し度の地震に夜中路
頭に出て難を避し時蚊の憂ひ有しかと、四方をかこひ上を
覆ふなとの労ハなくて、家に居るよりハ涼くていと〳〵心
易かりしけとも、此度ハ夜風を凌き霜を防く手段なくてハ
暫時も居かたく、まして夜を明すなとハかなふへからす、
かゝるむつかしきも厭なく路次に出たる、誠に苦しきわさ
ならすや、同夜半頃にも少しゆる、又明六ツ過ニも一度ゆ
る、是も少の事や歩行なとする時ハ知らさる程也、金城近
き町々の人ハ広馬場へ出て難を避け、又ハ己か家居の前へ
屛風襖様のものを持出て休足するも有けり
一同五日昼七ツ時半頃又々大に震ふ、前日にいたミ損したる
家なとハ多く倒るへく思ハる、天王寺秋の坊御殿崩る、其
砌余(ママ)阿波座辺の崩れ家を一見せんとて至りたりしに、願教
寺に程近き所にてすさましく地震し歩行する事かたく、か
ろうして願教寺の前なる小橋を打渡りて、門前の空地に座
して震の止むを待ける間、凡半時斗も有らんかと思ふほと
甚強く震ふ、先寺の門動揺する事其響のすさましき事怖敷
なんそいわん方なし、暫時の間に其辺の老幼男女の馳集る
事多く、大地に伏して各念仏題目を唱へなとする有様実に
胆を冷す斗なり、少し震も静なりける故家に帰らんと東を
さして走りけるか、喉かわきて走る事難く故に静に歩して
解舟町(ママ)の中程に至る頃、大砲を打放したるにや又雷にても
有らんか西南の方遙に響きたりき、されハ又もや大地震有
らんかとます〳〵恐怖しつゝ行に、又太皷を打如くにも聞
ゆる事二・三度に及へり、かろふして家に帰りて互に其事
を語り夕飯なと食しけるに又地震す、此度ハいさゝか也、
食終りて又々震ふ、此度余程厳敷かりき、然れとも少しの
間也、家内皆々路頭出て震の止むを待にけり、しはらくし
て路次を奔走する故如何成事にやと尋ねけれハ、道頓堀辺
大津浪にて大黒橋迄大船押来り、日吉橋・汐見橋・幸橋・
住吉橋海溢・金屋ばし落る、又金やばし・長堀高橋・新玉造橋
高橋・西二橋又亀井橋等皆々大船数十艘飛来りて橋杭迄も
不残打折、南岸の家蔵ハ勿論納屋樹木まて打倒して押来
り、大小の船々弥か上に重りて覆り打砕け、小船ハ大船の
下に押込れ突崩され微塵に成たり(ママ)有様ハ誠に目も当られぬ
次第なりき、其内大黒橋辺殊に甚しく、材木・薪板の類・
砕けたる舟の小片・水桶・荷物なと山の如く川中二・三町
の間天地もなく、上荷茶船其外端舟の類ハ陸に打上け砕け
たるもあり、尤もあハれむへきハ四日・五日の両日に舟を
借りて家財・重器・金銀・衣服等を乗せて船にて地震を避
んとて欲して大船の下敷となり命を落したる人々幾百人と
いふ事を不知、たま〳〵舟を陸へ打上ケられて助かりしも
種々様々の事共有之、かなしむへく悦ふへく其説多端にし
て筆紙に尽しかたし、又其時の人々泣かなしむ声のあわれ
にものすこき事言語に述かたしとなり、かゝる天災なれハ
中〳〵人力をもて助け救ふ事かたし、南(両カ)岸に付し舟なれと
も大浪ニてゆられて上陸する事成かたし、其内に大船折重
りしと見ゆ、今日境表も海岸少々損したりと、又天保山ハ
前日地震同様今日津浪にて怪我人ハなし、小家ハ少々崩れ
たるよし、津浪の節は皆々天保山へ登りて助かりたり、尤
高浪壱丈五尺ほともありしとなり、四日にハ尼ケ崎家百七
軒斗崩と云、五日の地震ハ如何有しにや未た其説を聞かす、
西の宮辺より兵庫等ハ津浪の患いなきよし[慥|タシカ]に聞ゆ、其外
丹州辺より三田等大地震ニて大破損のよし申触し候へ共全
虚説なり、かゝる折節ハ人々奇説を成して衆人を欺く者多
し、悪むへし併少しの荒ハ何方もあるへし
一同六日 曇 格別異る事なし、少々宛震ふ
一同七日曇天微雨朝四ツ時頃震ふ、しかしきひしからす、
少しの間なり、凡昼夜ニて六七度に及ふ
一同八日 曇 朝七ツ時頃少し震ふ、日晩頃迄に両・三度も
少し震ふ今日六日より水死の屍を追々に取上る
一右津浪にて当地新田所々大損し、人家流失死人等可有之よ
し
一去ル五日に崩れ損したる所追々に聞けるを記す、座摩社絵
馬堂堂崩、天王寺鐘楼堂崩、其外諸堂少々宛破損、五重之
塔三重目東方屋根損するのミにて余ハ全し、天満妙見宮絵
馬堂崩、同西寺町金毘羅社絵馬堂崩、大仁村百姓家五・六
軒崩、うら江村安楽寺本堂崩、安次川通其外九条村前垂
島・富しま・戎嶋辺崩家多し、高津新地高津橋南入納屋十
軒斗崩、生玉神主宅少々痛、雲雷寺本堂ゆかむ、天下茶屋
塀くつれ并家損し、下寺町源正寺門損し、其外寺々門損し
所有之、中寺町当麻掛所門崩、同隣本堂損し、高津志正院
高塀くつれ、難波鉄眼寺釣鐘落、同台所崩、其外諸堂少々
損又大津波ニて泉尾新田勘助島・今木新田月正嶋・木津村
新田海嘯難波嶋此辺の人々屋根へ上りたる者ハ助かり、船に乗
たる者ハ船頭水主もミな〳〵死す、其数千人共弐千人とも
わかりかたしとそ、此日前垂嶋辺にて海坊主を見たりと云
ふ噂有之虚実ハ不相分、尼ケ崎津浪にて内川八尺余水高く
相成、凡五日の夜まて三十五度の震なりと云、崩家之百軒
余破損同断也
堺辺津波にて築地橋落、浜手少々損す又泉州佐野津浪にて
損す、同岸和田も少々損し、大津ハ殊の外大破損のよし
一南都春日社無難、石燈籠三十基斗倒るといふ、同所町々先
にのかれし家所々損し又ハ崩る、郡山辺も奈良同様の趣に
相聞ゆ、伊賀上野辺も同し
右の諸方ハ程遠けれハ実否不相分、されとも見聞の儘知る
したり、又東海道筋大地震にて大荒左の通大津宿ゟ関迄ハ格別の地震無之
亀山 庄野 石薬師此辺大地割れ泥吹出し申す四日市裏町ニて建家四・五十軒潰れ浜手津波ニ
て流失桑名津波ニて流失潰れ家少々宮当四日辰中刻前代未聞の大地震ニて宮地殊の外崩家等出来、同刻津波押
来り又々浜の人家騒動、皆々高ミへ逃込申す、津波ニて崩家等ハ無之、同五日申刻辺四日同様大地震崩家弥々相増申す、近在津島町在ニて家数三百軒斗崩申す
濃州竹ケ鼻 地震ニて大地より泥吹出し申也
名護屋潰家格別になし鳴海池鯉鮒 岡崎此辺建家七部(ママ)通潰れ矢作橋イガ
ミ申す岡崎(ママ) 藤川 赤坂 御油此辺格別荒もなし吉田半潰れ 二川
白す賀半潰れ 荒井津波ニて宿内家蔵流失、船一艘もなし舞坂宿内八九第(部)通津波ニて流失浜
松大地震大荒見附半潰れ七八戸焼失袋井 掛川丸焼 日坂無事 金谷
丸焼一説半潰れ島田少し潰れ一説半潰藤枝 岡部 丸子半潰れ 江尻
丸焼 府中地震ニて家潰れ江川村より出火本町ゟ東丸焼沖津津波打込流失多し由比無事
蒲原出火跡潰大焼岩淵半潰大焼富士川水なし歩渡り吉原丸焼
尤三島より江戸まてハ格別の地震ハ無之よし、江戸は崩
家等無之損し候所少々宛有之
一大坂水死の屍取揚ける中に色〳〵変なるありと聞ゆ、何れ
も慥成咄也、屍の腹の真中へ棒の突通りたるあり、又木切
の耳に抜通りたるもあり、子を抱なから死たるあり、又ハ
若き婦人の首ハなくて手に三弦を持て死たるも有、又遊女
体のもの互にくゝり合て死たるもあり、皆々親類の有無に
かかわらす何れも見当次第に曳揚て千日墓所へ集めて積
重、心当りの者は千日に至り取調連帰る事也、流れ荷物ハ
道頓堀川八丁詰所に集在之なり
一或人津波の節住吉橋の橋台の上より梯子を下し是へ取付よ
と呼わり〳〵数人を助けたりしに、程なく大船数十艘飛来
り助け居たる者橋と諸共押上られて大船の下敷となりて相
果たり、是等ハ如何成過去□やの因縁そや、陰徳陽報の理
りなくてかく目前に死失せし事の哀にも又歎くべし
一小船に乗りて助かりし人々も有中に種々様々不思議に命を
全ふせし事を思ヘハ、神仏の加護あるものに似たり、又偶
然なるも有或船持の親子五人暮したるに難を避んか為に先
達而妻子を家舟に乗らしめて、己は家に帰り飯櫃を取来ら
んと上陸し、櫃を取来り舟に至らんとする間に、大船に打
砕かれたるや舟ハ跡方もなし、扨一両日経て我子の四才な
る屍を見出し悲嘆に堪へず、我もやかて捨身せんとする有
様を侍なる人の見てやう〳〵になためて其屍を持かへりし
免(め)しとそ、いとしく哀なる事ともなり、我身ハ命助かりし
けとも思ひもよらす妻子に別れ、器財調度も大半失ひし心
の内思ひやられて哀なり、又或家の嫁厠へ行とて家に戻り
し跡にて右の変に船覆りしもあり、又幸町辺に一長屋一同
に申合舟をかり乗けるに、親子五人暮しの者なりしか、姉
娘如何にすゝめても舟をきらひて舟に来らす、いろ〳〵と
叱りけれ共家の柱を抱きてはなたす、されハ娘一人家に残
し置んも心ならすとて、父母も止事を得す長屋の人々に断
をのべて家に帰りて、からき命を五人迄助けりけれハ、う
れしさの余りかねて信したりけん金毘羅大権現へ参詣せん
ともと取切払て出立けるとなん、この子偶にして我身を全
くするのミかハ両親弟妹四人迄の命を救ふて計らすも孝道
にかないたるも不思議なりし事とも也、又大船に乗居たり
し人の水分橋の詰なる家へ其船の艫先の突かゝりて家を打
砕き船ハそこにゆり上られたるによりて、船中の人々我先
にと其家の座敷より上陸せし者凡四・五十人も有しとそ、
其中に一人の男の盲人片手に小児を抱きて大船の垣を登り
て、やかてかの家より上陸して助かりしと、是等も亦一の
不思議なり
一十一日 晴風 朝の間度々ゆりたり、然共知らさる者多き
程なり、日追て段々と震も静み人々安心の思ひをなせり中
にも、種々の風説をなし衆人を惑はす者も是ありしにや品
々の事をいふ者多し、此節追々と諸国の津浪等の説を聞爰
にいふ如く日々に変りたる事も無まゝ略す
一同十四日 晴凮(風)朝四ツ時頃地震少しの間ゆる、十一日よ
り今日まて格別のゆり無之、今日ハ覚へし程の震也、十四
日と十五日にハ又々大地震有之抔と人々申伝て恐怖するも
の多し、され共替る事もなし
一同十五日 替る事なし折々少しゆる
一同十六日 雪昼の内雪少し降、同夜に入雪止、同四ツ時過
頃より大風西追々強く吹、音烈しくどふ〳〵として怖敷て
安寝する事難し、屋瓦敷落る所もあり、板塀なと飛散所も
有へし、近在所々定めて損したる家なと有へしと思いる今夜
尼ケ崎人家地震ニて損したる家多く、此大風ニて倒れたるよしなり
一伊豆下田去る五日(ママ)津浪にて大ニ荒、魯西亜船壱艘碇泊ニ
付、番船数艘在之所大浪ニて行衛不相知、全く覆溺と存せ
らる、異舟ハ格別痛ハせす、梶を打たる由也、筒井・河路
の両氏は前四日の地震に高所へのかれたる故津波の患をの
かれたりしよし
附魯船津波の節相損候処繕願出御聞済ニ相成、下田ゟ陸路
十里余隔相州荒里と申所ニて造作可致と相廻候処、海上
難風凌兼原吉原の沖合ニて沈没致し、いつれもハッテー
ラニ乗移原吉原の浜手へ上陸致し候得共、十八人溺死致
候布恰(カ)廷其外大将分ハ下田ニて上陸、右船に居合不申候