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項目 内容
ID J1800549
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔尾鷲市史〕○三重県S44・6・20 三重県尾鷲市役所編・発行
本文
[未校訂] まだ嘉永の年号であつた嘉永七年一一月四日、尾鷲地域沿
岸は津波の来襲をうけた。まもなく安政と改元されたので、
安政の地震・津波と一般にいわれているものである。当時の
模様を書き残したものに「村々人家流失の次第申し尽しかた
く候」といつているが、宝永の津波に次ぐ大きな被害をもた
らした。
 九木浦の九鬼嶋之助が尾鷲組の帳書中山幸右衛門にあてた
手紙に「厳しき地震にて近郷浦々とも大乱に相成り、前代未
聞の御事に御座候」と報告した。当時の様子が目にうかぶよ
うで、九鬼嶋之助の付近一二軒は、九鬼家に避難し、その屋
敷内に小屋掛けをした。
 大庄屋は「荒模様」として被害状況を藩に報告する基礎資
料を各浦村の庄屋に書きあげさせた。このときの庄屋の報告
が紛失しているので全体的には分らないが、須賀利浦の報告
だけが残つている。その報告は次のようであつた。
一窮民は見詰、三百余人
一窮民共へ毎日壱人前三合宛救合いたし遣し候
一当時稼一切無御座候
一流死人壱人、一、怪我人無之候
一船四艘流失仕候
一諸漁網凡六歩通リ揚リ、残リ四歩通流失
一畑九歩通大荒に御座候
一家数百廿軒之内、無事家拾六軒、流失家弐拾軒、大破損
七拾弐軒
一網納屋・船納屋・釜納屋・土蔵共三拾五ケ所流失
一浜側屋敷大崩ニ相成申候
須賀利浦から島勝浦に通ずる道は、大地震と津波で大破し
往来ができなくなつたので、藩吏の検査をうけ、早く普請を
行なつてほしいと願いでている。
 賀田村の記録によると「池水の地上にわくがごとく」とい
つているのは津波の特徴をよくあらわしている。このときの
津波の高さは宝永のときより約三尺五寸(一メートル余)低
かつたが「浪のはじめやはらかにして治大(次第)につよく
入来、其様荒々しく」といつている。そして「諸人田畑野山
に居て、念仏の声夥し眼前の地獄見ぬ修羅道のごとく」とい
うのは当時の人々の恐怖感の様子をよくあらわしている。神
仏の加護にすがらんとするまじめな姿が推測される。
 賀田村の被害は一六一軒(一五七軒ともある)のうち、海
岸通り七三軒流失・半流二軒・流死人一三人であつた。そし
て賀田村の記録には、尾鷲浦の流死人が約三五〇人あつたと
伝えきいて記してある。尾鷲浦では、津波は中久留のなかほ
ど、今町浦上屋舗まできたといい、実際の流死人は二〇一人
であつた。堀北一・中井七九・南二三・林五七で旅人が三六
人も流死した。記録のうえで明らかにしうる流失家屋は約九
九〇軒であつた。尾鷲組は七八三軒で、宝永の津波よりも多
かつた。
 流失軒数
矢浜村 二一
須賀利浦 二四
九木浦 二七
早田浦 四〇
天満浦 二四
林浦 一六一
南浦 一九九
中井浦 二八七
三木里浦 約一〇〇
賀田村 七三
曽根浦 二〇
名柄村 四
梶賀浦 一〇
計 九九〇
 津波のあつた直後、その様子を書き残したのは医者の若林
太冲(多仲)であつた。彼は「尾鷲津波の記」に津波のこと、
津波に関しての人間の醜さなどを詳細にのべている。多仲
は、宝永四年のことを手本としたとあるから、宝永の津波の
ことが、いろいろこのころまでいい伝えられていたのであろ
う。その中に津波のよせる様子を「ぐいらぐいらと音して、
土埃夥しく、家土蔵砕なから漁舟も回船も交りて河原をのぼ
るありさま、気も魂も消えるばかり怖しかりき」と表現して
いる。彼の記録によると流死人は旅人を加えて一九四人とな
つて、さきの人数と少し差がある。
 須賀利浦の「永代日記控」には一八日間も地震があつたと
いい津波の高さは一丈六尺(約五メートル)であつたとある。
尾鷲浦では一丈八尺という。その波のあがつてきた大概は
「林浦仲氏ならびに常声寺への通道角まで、堀浦の禰宜町よ
り金剛寺への通り道から一町ばかり上まで、今町柏町への通
道少ししたまで、北浦皆流失、矢浜地下蔵のしたまで二一軒
流失、天満浦一二軒流失、三〇〇石積の船が八幡山の麓にう
ちあげられ、長浜は一〇軒流失、高町八軒町へ通る角より浜
通り角まで西側が残り、新町へ通る道で一軒残る。袋町は高
町へ通る角ちかいところ竪横で納屋借家とも一〇軒残る。世
古町四軒残る」とある。
 津波による難渋者は早田浦二〇三、九木浦九三、矢浜村一
一一、林浦四七三、南浦五五五、中井浦九六五、野地村二
一、堀北浦一八八、天満浦一三二、水地浦一六、須賀利浦二
九六、合計三〇五二人の多数におよんだ。当時の人口六七八
二人のほぼ半ばに達する数であつた。
 土井本家は米三〇石・荒布六〇〇貫を救済に放出し、とく
に林浦罹災者の五四六人に米三〇石を合力した。須賀利浦の
普済寺は、須賀利・島勝・白・矢口の各浦の窮民救済に尽力
したので、翌二年藩から晒一反を拝領し、ほめられている。
この時尾鷲組は若山御仕入方から一五〇両を拝領した。
 藩は、銀一〇貫七九一匁五分・銭一八〇貫二〇〇文を建築
材の購入費として[下行|げぎよう]し、中井浦四五石・堀北浦七石・林浦
二二石・南浦三〇石、計一〇四石が[施行|せぎよう]された。安政二年五
月には曾根浦に藩から下行されたものは「流失潰家へ家木料
御下ケ銀割当テ帳」に残つている。
 曽根浦の救済
流失家屋 松木 此銀 ほか銭 一軒当 一本当 一軒銭
本役
半役
一四軒二一〇本三一五匁七貫文一五本一匁五分五〇〇文
法役 八 八〇 九六 四・〇 一〇 一・五 五〇〇
潰家一八 九〇 一三五 九・〇 五 一・五五〇〇
半潰一五 三〇 四五 七・五 二 一・五 五〇〇
 この津波ののち浦の人々は、流失物をきそつて拾得した
が、その姿をながめた多仲は「つなみの跡は人の心いつれも
皆賊心おこり」 「正直なるものをはあほうの如くおもひ、誠
に言語に絶たる事どもばかり也」と評している。
 このとき、林浦の兵蔵は金を拾つたところ、辻本屋甚兵衛
の手代がきて、辻本家の所有であるから渡すよう要求した。
そこで定法の拾い賃を出すことで、その一六〇両三歩一朱を
手渡した。ところが、一三両一朱が不足しているといつて拾
い賃を渡さなかつた。そこで兵蔵は大庄屋に訴えた。これも
津波後の世相を示すものである。
 安政の津浪は浦村が長いあいだ困窮におち入つていたとき
に起こつたので、その復興は容易でなかつた。そのため、そ
の後の尾鷲地域の藩の拝借金を願うときには、この安政の津
波の大きかつたことを難渋の最大原因にあげている。藩も財
政的な打撃をうけ幕末の国防・内乱への出費によつて財政難
は深刻になつた。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 1413
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 三重
市区町村 尾鷲【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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