[未校訂]嘉永七年十一月四日(一八五四)午前九時ごろ宝永地震とほ
ぼ同じ規模の大地震があり、震源地は遠州灘で、マグニチュ
ード八・四であつた(三重県災害史)。これより前から地震
のきざしがあつた事が記録されて甲賀、中村兵助家の文書に
「嘉永七年、六月十四日夜七ツ時(午後四時)はじめて、殊
の外大地震致し、皆々驚き候処、国々大いたみ、勢州四日
市、伊賀上野、南都其外所々人家とも大潰死人多有之、然所
夫より折々少々づつ地震ゆり出し、人々驚入候」と記してい
る。五カ月後の嘉永七年十一月四日、安政の大地震(この年
は十二月二十五日に安政と改元されている)となり、地震に
よる津波で甲賀村が大被害を出した。甲賀自治会に「地震津
甲賀村地震津波被害数
波ニ付願書諸事控帳」が残つている。それによると津波の状
況を次のように鳥羽藩へ報告している。
一村方領分去ル四日辰ノ刻頃(午前八時)大地震仕候節
ハ、土蔵、古家等、捻潰レ家々瓦落、破損等有之、一同
驚罷在候処、無程潮高満と心得候内、津波村方 押寄候
事五度、就中三度目浪干去ル事、平常とハ甚ダ遠く六七
拾間も余ル処ニ引去、是ハ津浪弥驚候所、丑寅(北東)
之方より白浪十重廿重ニ打重リ、如矢押懸リ一時ニ村里
中一面ニ押流し申候、未之刻ニ至リ浪少々干口ニ相成リ
候節も、村田一円之海ニ相成リ夕方ニ至リ潮々静リ申
候、磯際ニ而浪高サ凡三丈五尺、浪先凡拾七八丁来リ申
候、右ニ付御見分被下置候所ニ左之通ニ御座候
一流死人 拾壱人内 宗七、丁兵衛、丁五郎、角蔵、丁四
郎、源四郎、直吉、みか、小かん、
りさ
外ニ番人女房壱人(番人のことは番
太のことか)
一去ル四日大津浪村方へ押寄候時ハ私共、親或ハ女房、忰
之者共、過急之事ゆえ、逃去候時分、互ニ如何致候哉、
不相知私共命助り候而も或ハ家屋乗、或ハ樹木ニ上リ候
而漸ニ命助リ申候、捨親、捨子候ニ而ハ決而無之候得
共、其浪来ル前より銘々居所隔り罷在候而、右流死仕候
者死骸見付候而より、初而驚入申候儀御座候、全火急之
事故、大津浪ニ押流サレ候事ニ相違無御座候(以下略)
寅十一月十日
津波による被害は意外に大きく、とくに奥地区の家屋はほと
んど流失し、潰滅状態であつた。加えて余震が激しく、志摩
一円は十日ぐらいは山小屋生活を余儀なくされたと記録され
ている。甲賀村全戸数二四七軒のうち三五軒が流失し、難渋
者は七七軒、四二七人に達して「渡世之致方も無御座候」と
書き、その救済に村役人は苦慮していた。
十一月二十四日、松阪の一嶋庄三郎から鳥羽藩に、津波によ
る困窮者に無利子、無期限の金を貸し出すとの申出があり、
大庄屋を通じて被害調べがあつた。甲賀村は難渋者を調査し
て報告、十二月に金百両の借り受けの申し込み文書に「難渋
の者共、追飢餲ニも可為之処、格別之営を以村方一統江無利
足ニ而御貸下ケ被成下候段、難有奉存候、返済之儀ハ漁事等
ニも取続キ得仕合候ハゝ本金返上納可仕候、尤御高恩之儀ハ
永々忘却仕間敷候」と願い出て百両を借用し、毎年、盆と正
月にはお礼に参上するとの約束書を出し、ごく難渋者の名簿
を一嶋氏に提出している。この他、鳥羽藩から沢手米(ぬれ
米)一八二俵、近村の見舞い金で一四俵の米を買い、被害者
へ配分している。この年、松村清蔵は、いろは順の狂歌を作
つて当時の苦しさを次のように詠んでいる。
(も) もちつかず 門松立てず すすはかず
着ず食はず寝ず 足をのばさず
(京) 今日は食い あすは食はずに ゆく月日
まして手業の しげきおりふし
「流失見舞、生活の糧をうけ、漸く元気を取戻し、住居再建
を計る、その後籾種を借り、芋種をもらい、さんざんの労苦
をなめ負けじ魂をふるい、孜々営々と勤労にはげむ、一家を
建るには五十両を要す」と追録している。
奥地区は当時、海岸付近に部落があつたが、その後、津波を
恐れて山手へ移住するものが多く、現在の奥地区を形成する
ようになつたと伝えられている。なお一嶋家の借金は明治二
十六年三月二十九日の松阪大火災により一嶋家も焼失したと
聞き、甲賀村はただちに義援金を募り、百円を返済して高恩
に報いた、と当時の村長小林多三郎は書き残している。
一方、国府村は震源地の関係から甲賀村より被害は少なかつ
たが、下村奥次郎家蔵の「地震津浪ニ付、御上江書上帳控」
(注、本書に掲載してある)に被害の控えを書き残してお
り、この地震津波で被害の大きかつた村は浦村、安楽嶋村、
相差村、国府村、甲賀村、越賀村、和具村、志嶋村で、太平
洋に面した村はとくにひどく、国府村は一四七年前の宝永の
津波の経験から、避難が早かつたのか死亡者はなかつたとい
う。
当時の国府村庄屋、下村藤八は次のように状況報告をし、被
害届けをしている(中略、別掲参照)
堤防改修には二年間を要し、十七カ所、一四五〇七工かかる
大工事となつた。なかでも道城橋からがんな橋までの区間と
中嶋堤、東海道堤はいずれも「根ばり」七間から九間、高さ
八尺、延長はいずれも百間以上の改修となつている。
龕流山福満寺
甲賀元標より艮(コン)の方字奥の郷中尾(ナコ)にあり、
東西二五間、南北二一間、面積六七二坪、禅宗鳥羽常安寺の
末に属している。本堂の南にある地蔵堂は字前の浜(後年、
地蔵場の称あり)に今の本堂存在中からあつたが、本寺は文
化年中こゝに移転し、地蔵堂だけ残つていたが、安政元年の
大津浪に堂宇が流失し、本尊だけあつたのを土民が拾い上げ
てこの堂宇を建立し、安置したものである。
甲賀の新田開発は江戸時代以前から土堤を築き、内側に松林
をつくつて海蝕を防ぎ、潮風、砂よけとしたもので、ほぼ現
在の同位置に完成されていたものと考えられる。享保三年の
指出帳にも新田開発はわずか出ているだけである。しかし津
波、台風のたびに堤防が破壊され、海岸に近い耕地は荒田が
多かつた。
安政元年の大津波により、浸水田の作土は波にさらわれ、地
盤の低下となつた。村民総出で作つた仮堤防も地盤低下で水
はけが悪く、雨が降るたびに百余軒の関係耕作者が出て川ざ
らえを行なつたが、稲穂が実らぬ年が多かつた。安政の津波
以後、甲賀村耕地の大部分は荒田同様であり、したがつて農
民の生活は貧しく、わずかに漁業による収入で生活をささえ
ていた。明治八年、地租改正を機会に村有林、鹿谷山、大石
山を村民に売却し、畑地の開発を奨励し、売却代金で村財政
を立て直し、堤防の大改修を図つた。
一池田堤津波により字祢宜田まで砂浜となり、風雨ごと
に人家の被害も多く、明治十四年、現在の堤防を築き、
大口、池田、祢宜田の再開発をした。伊勢湾台風後は石
積みの強固な堤防となる。
一前田堤 浜田海岸堤防で、津波に破壊された個所を修理
し、毎年かさ上げ工事をして現在の堤防となる。
一イナセ堤防安政の津波までは海岸に接する小高い丘
で、小ざさが群生していたが、津波によつて人家ともに
流失し、現在地に仮堤防を築いた。明治二十三年、県営
工事で国府境まで本堤防を築いた。