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項目 内容
ID J1800496
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔津市史 Ⅱ〕S35・11・1梅原三千西田重嗣著・津市役所発行
本文
[未校訂] 一大激震と高潮の来襲 六月の大地震の余震はだんだん衰
えて、九月十月頃にはよほど人心が落付いてきたのである
が、十月二十日頃からまたもや微震がしきりに起り、大地震
の前徴であるという声が町中に伝わつたが、幸い十月は無事
にすんだ。ところが十一月四日の午前九時頃突然大地震が起
つた。それは六月の激震に数倍する激烈さで、しかも震動の
時間が長かつた。町民はすわこそとあわてて戸外に飛び出し
た。幸い昼間であつたので死傷はなかつた。すると、約一時
間後に「津波が来た!」と叫んで浜手の方から騒ぎ立てた
が、それはたいした高潮ではなく、すぐに引いたので喜び合
つていた折しも、午前十一時頃再び猛烈な高潮が襲来した。
町民は驚きふためき先を争つて愛宕山、千歳山、青谷山など
の高地に逃げ出した。市街の中央部の者は観音境内に避難し
た者が多かつたので、同境内は立錐の余地もなかつた。
 高潮の状況と町内の浸水個所 この時町内で入水した所は
次の通りである。
汐先の事
馬場屋敷前三尺(〇・九メートル)ばかり上る
伊予町中屋の表迄
分部町丁字屋表迄
堀川筋新中町迄
入江町庭へ四五寸(一四・五センチ)入る
新地裏悪水溝迄
築地川岸大藤表迄(竪町辺は一面に門先水上る分部町口
にて汐先出合ふ)
半田橋にて脊丈ケ有之
塔世橋は二合位の水の由地面高みに有之候
極楽橋落る(追而舟渡しに相成一人前三文つゝ)
(岡安定日記)
これは津波としてはそれ程恐ろしいものではなかつた。そし
てまもなく引下げた。なおまた一回押し上げたが前よりも微
弱であつた。 「岡安定日記」には、当日海辺で高潮の押し
寄せて来る状況を実見者の話として初回の大潮は藤原浦の辺
から大波浪を起して襲つてきたように見え、第二回は神島海
門から山のような大波をまき起して猛然として直進してくる
物すごさは言葉ではいい表わせなかつた。と書いている。こ
の高潮は浜屋敷(藤堂仁右衛門海荘
)の辺までは三メートル余の高波の
ように見えたが、岩田川を上るにつれて衰え、堀川では一メ
ートル程となつた。しかし流勢が矢よりも早くて、水音がす
ざましく響くので、附近の人々は驚いて逃げ、一時はたいへ
んな混雑であつた。
 四日の其後と五日の状況 津波は右のように幸い大事には
ならないですんだが、午後二時頃また激震があり、引続いて
余震の絶え間がなく、午后四時頃に二回と夜になつてから
七、八回の強震があつた。その上夜半に西南西の方角で、鳴
動音が六、七回もとどろいたので、避難者は一晩中一睡もし
なかつた。しかし天候が静穏無風であつたので、倒壊家屋も
火災を起すこともなくその夜は無事にすんだ。
翌五日の暁には西風がそよ吹いて天気は快晴、夕方に小雨が
訪れたが、夜に入つてまた快晴に復した。この日は朝六時に
強震があつたがその後は微震が毎時四・五回程度であつたの
で、やや安心していた矢先、午後五時にまた激震が襲つた。
六月の激震よりはやや軽震ではあつたが震動時間は非常に長
く、その後も間断なく余震がつづき、夕方七時から夜十二時
までの間に強震が数回あつた。その後も依然として微震がう
ちつづき、いつ止まるともわからなかつたので、人心の不安
は極度に達した。避難所に居る者も昼夜帯を解かないで、重
要品を懐中から離さず、何時でも津波から逃げられるように
準備をして、一睡もしないで夜を撤した。そしてこのような
状態は数日間続いたのであつた。
大震後の十日間
一六日 天気暖気夜に入り亥の刻頃辰巳の方より西の方
へ三筋雲立ち、中の雲少し赤色を帯ぶ、両脇二筋は白色
にて暫時に消る
朝卯の刻過中震、辰刻中震、午刻頃迄微震二三度、夕酉
刻中ノ小一度、亥刻中ノ中震、子半刻小一度、丑半刻頃
小震其外微震有之
一七日 曇 朝巳の刻ユサ〳〵有之、未刻頃より小雨、酉
刻過中の大一震、夫より暫く微震止ます、戍半刻より時
雨に相成、夜中微震四度、明寅刻頃中ノ小一度
今日震少し穏に有之候故家内打廻候処家作始終ボキ〳〵と鳴り候て甚気味悪敷有之候事
一八日 曇、小雨、辰半刻より快晴、殊の外暖気、夕申刻
頃より西風吹き雲行荒く相成、戌刻頃より晴、午刻小震
其後震穏、夜中微震二三度
一九日曇、折々照、夜中晴辰半刻頃微震、巳刻頃微
震、夜に入り亥の刻頃中の小震、子刻頃中ノ中震、丑刻
頃小震其外微震四五度
一十日 快晴、寒気、西風吹く、夜中晴西風荒吹く 昼の
間微震二三度、夜中震無之
一十一日 晴、荒風 辰半刻頃小震、巳半刻過中ノ小震、
申刻頃小震、丑刻小震
一十二日 天気、朝寒気強し、昼後暖気、夜に入り晴 卯
刻頃小震、午刻頃微震三度、酉刻頃微震 酉半刻頃小震
子半刻頃中ノ中震、寅刻頃小震
一十三日 天気、夜中も晴 辰刻頃微震、夜に入り丑刻過
小震、寅半刻頃小の大震
(岡 安定日記摘記)
 避難民帰宅 十三日頃にはこのように危険は既に去つたの
で、町民は安心し、神棚、仏壇、重要物品を家の中に運ん
だ。しかしまだまだ昼間は家宅内に居ても、夜間になると仮
屋に寝たり、または昼夜ともに戸外に避難を続けるものもあ
つたが、だんだん寒さが加わつて、戸外での生活に堪えられ
なくなり、十八、九日頃にはおおかた住宅に帰つた。
 被害状況 この地震は昼間であつたので、人畜には被害は
なかつたが、建物の被害は非常に多く、中でも士族屋敷には
全壊、半壊が比較的に多く、板塀や練塀の類はおおかた倒れ
た。国校の講堂有造館も倒壊し、各寺院も多大の被害を受け
た。極楽橋は落ち、岩田川口の堤防は十五、六糎から三十糎
余の割れ目ができ、割れ目から五、六十糎も陥没した所もあ
つた。丸之内南堀端の道路は延長十三、四米も割れて泥水を
吹き出した。町民の住宅は壁は落ち、瓦は飛び、家の傾斜は
もちろん、全壊家屋も多かつた。中でも離れ家の被害は最も
大きかつた。十日から三日間、町中は奉行の属吏が、町年寄
と共に戸別に巡検し、士屋敷は普請奉行、作事奉行、大工棟
梁等が巡検して被害を調査した。その状況は次の通りであ
る。
嘉永七寅年十一月四日朝より五日夜へ向け大地震並高
汐ニ付
破損目録津町
并寺院
一潰家 五十軒
一半潰家 百十五軒
一大破損傾家 二十二軒
一破損並傾家 二百八十四軒
一傾長屋 二ケ所
一潰土蔵 十二ケ所
一半潰土蔵 三十二ケ所
一大破并破損土蔵 百九十二ケ所
一潰堂 二ケ所
一半潰堂 二ケ所
一大傾大破堂 二ケ所
一大傾大破客殿書院 七ケ所
一潰書院并座敷附庫裏 八ケ所
一半潰書院并座敷附庫裏共 八ケ所
一潰 門 五ケ所
一潰并半潰玄関 四ケ所
一潰并半潰小屋但井戸屋形共 六十二ケ所
一大破并傾小屋 二十二ケ所
一潰并落庇 但廊下共 百三十四ケ所
一潰高屛 二十一ケ所
一潰雪隠 三十四ケ所
一汐入家 十三軒内床上迄五軒床下迄八軒
一破損船 一隻 但四十石積磯端
一石垣崩 二ケ所
一石燈籠倒損諸建物瓦落壁落等多分に御座候
一流死人 二人 但し女
外に二人(東村の者髪結の子)
一人馬怪我無御座候
右の通りに御座候 以上
(嘉永七年)寅十一月 町年寄共
御奉行所
藩士屋敷の被害調査の記録はない。次は大庄屋から調査報告
した郷中の被害状況である。
津領郷中書上写
十一月四日朝より五日夜へ向け大地震并高潮ニ付破損目

一合町数 百八十三町四反廿七歩

百七十九町三反 汐入本田新田畑
四丁一反二十七歩 泥吹出 本田畑
山落 新田畑
埋ゆり割 欠所
一塩漬町数 七町余 砂入
一堤防切所 合長四百八十六間
一堤欠所 合長一万九千八百五十四間 但し田畑
往還地所堤川堤道欠山欠溝手欠欠所ゆ
り割摺り下り共
一潰家 百七軒
一半潰家 四百九十二軒
一潰書院 五ケ所但座敷隠宅共
一潰土蔵 四十九所 但し郷蔵物置蔵共
一半潰土蔵 二百五十四所 但物置蔵破損土蔵共
一潰小屋 百二十四ケ所 但し潰井戸屋形共
一半潰小屋 百二十六ケ所
一庇落 八十二ケ所但し土蔵小屋庇共
一半潰堂 四ケ所 但し行者堂共
一半潰庫裏 一ケ所
一潰小堂 二ケ所
一潰社 六ケ所但し素屋(ママ)の手洗所共
一半潰社 四ケ所
一潰門 九ケ所
一半潰門 三ケ所
一潰高塀 三十四ケ所
一半潰高塀 十ケ所
一傾 家 二百六軒 但し堂并土蔵小屋共
一汐入家 四十三軒 但し内二十八軒床上迄拾軒床
下迄
一潰雪隠 二百三十七ケ所
一半潰同 百十六ケ所
一橋 落 二十五ケ所内石橋十三ケ所 但し一ケ所
破損共板橋九ケ所土橋二ケ所
一水筒損 六十五ケ所 但し流失共
一山落 五十七ケ所
一井堰落 二ケ所但し明吐堰落共
一蒦損 四十九ケ所但石蒦出蒦片蒦共
一漁船小越船破損 十二艘 但流失共
一流失小屋 二ケ所但し汐釜小屋共
一汐留破損 百三十三ケ所
一流失割木 一万千四百九十五把
一怪我人 五人 内男四人 女一人
一石燈籠損諸建物聊宛傾瓦破壁損し石垣崩等小破損は多分
御座候
一牛馬 怪我無御座候
右之通御座候遂吟味書付差上申候 以上
(嘉永七年)寅十一月九日 大庄屋共
この郷中の調査は倉卒の際のものであつたので、再調査をし
たが、その結果被害はこれよりも遙かに甚大であつたとのこ
とである。(その統計は残存しない
)伊賀の被害は伊勢とほぼ同一程度で
あつたが、松阪、山田、志摩、紀州沿岸は極めて甚大な被害
を被つた。
 朝廷の御心痛と人心の不安続く 十六日に朝廷では近国、
四国、東海道筋の地震津波等のことを聞召し、余震がいつま
でも止まないのでたいへん御心配になり、伊勢神宮に御祈禱
の御教書をお下しになつたとのことである。津地方でも日が
たつにつれて、東海道筋、江州路、京阪地方の状況もだんだ
ん伝わつて、噂がとりどりであり人心の不安は容易に去らな
かつた。十一月の末になつてもなお多くの者は寝る時には帯
をしめたままで、枕辺に着替類、財布、火打袋、提灯、草履
などを取り揃えて置いたのである。
十一月二十七日に安政と改元されて十二月五日に町内に布達
された。これはあまりに災変が重なるので、「庶人安政、然
後君子安位矣」という「群書治要」の語をとつて改元された
とのことであつた。
 被災者の救助 藩主高猷は、十二月二十日に、藩士一同を
召喚して、災害救助金を次の要領で給与した。
直言
此度又々大地震ニ付藩士の面々居邸向大破に相成候趣天
災とは乍申実に意外の儀殊に寒天の時節可為難儀不便の
品察入候、就ては手宛金等多分に遣し度候へ共近来内外
物入相嵩み、且当夏伊州大震後間も無之事故勝手向弥増
不如意に相成何分存念通り救助出来難く、乍去武備専務
の折柄右等にて自然不行届に相成候ては以の外の事に
付、勝手役人へ説得いたし貸渡金申付候、右迄にては迚
も都合付間敷候間常々節倹を以て貯置候手元金の内、些
少ながら遣し候間此の已後増以厳倹相守り、勝手取続、
武備隆盛に相成候様心掛可申候也
(長氏所蔵文書)
此度大地震ニ付御家中一統居屋敷大破に及び候段深御不
便被思召右に付格別の思召を以て御手元金より御下行金
并御表より御貸渡被仰付候此段御直書を以て被仰出候、
寄合以上諸役人へは右御直書、其以下へは右写拝見被仰
付候何れも難有敬承可被致候
年 寄
小割之覚
一知行百石 御下行金十五両無利十年賦御貸渡金十五
両右以下同断の割
一知行百石以上 五十石ニ付御下行貸渡金共三両三分ツゝ
相増候割
但百四十石にても御下行御貸渡金共拾五両ヅゝ百五十石
は御下行御貸渡金共十八両三分ツゝ以上準之
一知行三百石 御下行金二十八両二分無利十年賦御貸渡
金二十八両二分ツゝ
一知行三百石以上 五十石ニ付下行貸渡金共二両一分ツゝ
相増候割
但三百四十石にても御下行金御貸渡金共二十八両二分ツ
ゝ三百五十石ハ御下行御貸渡金共三十両ツゝ以上準之
一知行五百石以上并寄合禄高高下に不拘御下行金御貸渡金
共金三十七両二分ツゝ
一鑓奉行以上 右同断金五十二両二分ツゝ
一高知 右同断金百十二両二分ツゝ
一番 頭 右同断金百五十両ツゝ
一二十人扶持切米百俵 知行百石の割
一金給十両 切米三十俵の割
一部屋住勤并御礼申上候手代席而已被下候分御下行御貸渡
共無之候事
一知行減少高にて相勤候者本高にて被下候事
一半潰以下半減にて被下、大破の分四ケ一被下、小破の分
八ケ一被下候事
一一代限の者御貸渡金無之候事
一後屋敷に罷在候者此度の大破小破共御取繕被成下候ニ付
御下行御貸渡金とも無之候事
一御長屋住居並借宅の者共御下行御貸渡金無之事
一居宅無之同居の者同断の事
一自宅ニ罷在候者拝領屋敷同様の事
一拝借屋敷並小頭明長屋拝借の者共も御下行御貸渡共有之
候事
以上
津町中の被災者に対しては、全壊五十戸に毎戸米三俵ずつ、
同半壊大破百三十七戸に毎戸米一俵二斗ずつを給与し、農村
の被災者に対しては、従来の例に準じて、全壊は銀五十匁、
半壊はその半額を給与し、特に今回はそれに全壊には金三百
匹、半壊にはその半額を添加して給与した。
 大地震の時の心得方 以上の嘉永大地震の状況は、「岡安
定日記」によつたのであるが、安定は自分の経験によつて災
害時の心得方を後代人に示すために、同日記の末尾に次の貴
重な一文を掲げた。
一大地震有之候はば第一火之元の事、火の気無之様手早く
水打掛可申候事
此度の地震にも所々少々づゝ火の沙汰有之候へ共早速打
消申候第一に相心得可申事に有之候
一大地震有之候はゞ洪波来るべく心得可致候事
津波には船は一切間に合ひ不申候、高潮引口に打割可
申、必洪波に船に乗るまじく候、船手の者も命から〳〵逃上り申事に有之候、依之大地震に船へ逃退候事不宜候
船方より承り候処津波汐満に直に押来と不申候物の由、
汐は満干によらず一旦失引とて大に汐引申候はゝ必洪波
来り候と心得可申事の由、失引一里有之候はゝ返し浪三
里は押し来り候事の趣申居候所如何にも右の通に有之
候、引汐静に有之候はゞ恐れも無之候へ共引浪強きは直
に返し波の用心すべし油断あるべからず
一津浪は押込候はあまり急には参り不申、水先逃退候事も
出来候へ共引汐は如何にも急なるものにて可恐候、建家
倒し候も引汐に足取申様子に相見へ申候
併し此度の津波も諸国近辺とも承合候処先以当所は格別
の事も無之難有土地に候、津浪はあまり逃出あわて候て
は却て怪我等も有之候故、先つ居宅二階にて用心致候方
可然被存候、当辺建家も打流候程の事ニ候はゝ迚も逃延
ひ候場も無之候、勿論諸国海岸一統の事に可有之候能々
心得可有之候、大地震其上洪波等にて逃退候て山手又は
門中にて臨産に相成候者も多分有之候、又は病人小児な
ど大に動候て命終いたし候者も有之候、既に雲井勘三郎
殿小児も下女背に負ひ候て愛宕山へ逃候所途中にて相果
被申候、気の毒の事ニ被存候、大地震洪波にて銘々に逃
退候事故親妻子ともちり〳〵に相成居漸く尋合候て夕方
頃追々出合候者は多分に有之候
一大地震に門へ出候に軒下を心得早く出つべし、庇は落ち
易き物也、瓦も落る也(草履は手に持つて逃ぐべし門に
出てはく事)
一土蔵の近辺に居寄申すべからず瓦壁なと落ち易きもの
也、高塀も倒れ易きものにて用心すべし、上に物なきと
心得大に怪我有之候、夜中は別て右等心得べし
一市中建物は容易に倒るゝものにあらず、其内裏廻りの建
物倒れ易し、辻の家は倒れ易き故辻小路等は心得申すべ
し、四辻へ飛出候事よろしからず
一途中にて大地震に出合候はゞ地裂くる事有之候、足方心
得べし、土手道、岨道、細道など必ず地裂くる也、又川
端、堀端、池筋は別て心得べし、ゆり崩れ、地われ、泥
吹出候物也
一逃退候節差当り一応の食料必用意可致事(精々銘々路金
持参可有之候事)
一夜中は早く提灯ともし候事
一御守離すへからす
一中ぬき草履二三足手近く置くべし
一行燈のかき立棒少し後の方に置くべし、震てかき出す為

以上(後略)
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 1253
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 三重
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