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項目 内容
ID J1800447
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔田原町役場提供文書〕○愛知県
本文
[未校訂]田原町文化財調査会 ♠目作司調
(庄屋日記)田原町庄屋 彦坂弥八郎
一安政元年寅十一月四日巳午前九時ノ上刻大地震有之。六月十三日夜
とは違ひ、誠に大変の大地震に御座候、内方も家内中誰も
ケガ不仕候得共、居宅釜屋共に北へかたぎ、土蔵は不残ハ
チ巻落チ瓦ゆり落、柱尻よじり、なかにも東の干鰯蔵潰申

座敷も床の間開き申候、新蔵・宝蔵・西の蔵ひさし等は特
に破損多く、棟毎大破に及申候
田地等も所々新田潰申候
海新田は、つなみにて堤切れ、翌年迄も海に成申候
すべて底(ママ)き所は一尺五寸、或は二尺位の広さ割れ申候
浜田辺は高ミ故地は割れ不申候、枯木川辺割れ申候
浜方はツナミ、地震の後半刻計過ぎツナミ三本打申候
此の節手網四帖・網船・諸道具共流失申候、片浜不残の事
に御座候、浜辺は、五間・八間・十間・二十間、或は百間
欠け申候
此の日網をかけ浜に居候得共、早々よき坂よりかけ上り村
方の者は一人もケガ人無之候、山見は山ニ付ゆり落され候
得共ケガ人無之候
外々の村方にてはケガ人有之候
何分此度は諸国大地震の事、遠州は猶又大変の由
見付宿・袋井宿ハ不残家潰れ大火事に相成、人損候事数も
限りも無御座候由、田原御城も御大破に御座候、併御屋
倉・御門は、ツゝがなく御座候
吉田御城は余程ゆり込候由、西国辺は四日・五日両日共地
震ツナミ之由。大阪は大変の事に御座候
江戸は格別之事も無之候
前書の通り四日巳ノ刻大地震、半刻程過大ツナミ、五日の日
に西に当り地にて鳴りもの、それより日々五・七度はゆれ表
に小屋を掛け、煮たきも小屋にていたし、翌年卯年二月中旬
迄小屋にて伏り申候、翌年卯年になつても大ていの日にゆれ
申候、安政二年三月十四日迄ゆれ申候、誠に前代未聞の事に
てサテ〳〵恐ろしき事に御座候
神戸村庄屋日記(鈴木佐平太)
一嘉永七寅年改元有テ安政元年十一月四日(改元は十一月二
十七日)大地震、此日晴天にて、風気少しもなし朝五(前九時)ツ半
時俄に大地震となり、其の長きこと凡そ一刻余り、竹木は
ゆりのため大風の如く、空飛ぶ鳥も自由ナラズして地に落
ち、大地所々泥水を吹き出し、人家倒れ男女老少共自由に
歩行出来ず、皆声を発して親は子を呼び、子は親にすが
り、悲鳴を挙げ此の時の惨状、筆紙に述べ難し、此日たる
や、漁夫は網を引付おり候が、地震の為、浜の欠(ママ)は裂け、
浜辺は白煙となり、広き所数十間も欠込崩れ、弥々皆死を
覚悟、浜にて大念仏を唱え陸へ帰ること不能、無拠東百々
村、井戸谷へ行、是より上陸し、いずれも其の上り道に困
りしが漸く衆人我家へ帰り、然れ共微震未だ不止して海面
大いに轟き、一見すれば、南大崎より大山の如き大ツナ
ミ、東の方より同ク大ツナミ、其の前凡そ海面二十丁位潮
干となり、然る所東西より斜に大ツナみ寄来り、欠六、七
合迄海となる、是をツナミと言ふ
此の時に当り人民恐怖し、食物を荷い、土地高き所へ逃行、
其夜野宿し、明る五日午后より凡そ五刻余り西の方に当り鉋
(砲)声の如き鳴り物し、四日より二日三夜の間ゆする事相止ず、
人民家財を捨て置野辺に小屋掛し、五・六日間野に伏し、夫
より各戸我屋敷内へ小屋掛けし、又二十日余りも小屋住居、
実に前代未聞の大地震、此の時迄は、浜辺に六七尺廻り大木
沢山有之、何れよりも道なくして浜へ下り、欠に草刈場、山
刈場等あり、此の時より以来浜辺は欠込の為赤欠と相成しと
云ふ
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 1186
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 愛知
市区町村 田原【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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