[未校訂]教育委員会発行
安政元年(一八五四)六月十二日、畿内・近畿地方に起つた
地震でとくに勢州・江州・伊賀三ケ国は強く、伊賀上野城は
悉く崩れ、四日市は町家悉く潰れ火災を起こした。此の辺で
は十三日の夜より十四日の夕方迄に昼夜六、七度ゆすれ、そ
の後二十三日頃まで十日余の間、日々ゆすれ、表に蚊屋を吊
つて寝る状態であつた。安政元年(一八五四)十一月四日畿
内及び東海、西海、南海、山陽、山陰諸道の地震で、僅かに
震災を逃れたのは東北のみであつた。浜田村庄屋彦坂弥八郎
の『万心附書留』には(注、前文書と同文につき省略)
この両年の地震について渥美重儀(極楽新田元〆)の『珍事
年代記』には次の様にある。
嘉永七年(安政元・一八五四)六月十四日之夜八ツ時大地
しん。勢州四日市家皆そんじ出火人多く死す、伊賀上野、
御城大破そん天志ゆ下こむ也。同年霜月四日四ツ時大地し
ん、此辺大ニ家そんず、片浜十三里皆がけくづる。同日四
ツ半時つ波うつ、人所々にて志す。池尻ニテは家の内に魚
有、おほゑに弐斗つきのうすあがる。皆人野宿致す、殿様
も野宿被遊候。同五日夕方熊野之方ニあたり大なりもの致
す。田原之犬皆山ニ上ル。ほり切日出家多く流る。村々増
伴(番)付当村ニテも三人増。ことわざに田原之ねずみ皆木に上
る。志を五、六日ひる事無、皆人是ニぎよう天す。此辺依
テ村中一人前ニ繩弐把つつ御上様江差上申候……、