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項目 内容
ID J1800446
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔羽田埜家史料〕○豊橋市花田
本文
[未校訂]愛知大学総合郷土研究所
(表紙)「 嘉永二年
羽田埜神社
万歳書留控
己酉正月吉日安政元甲寅十二月迄六ケ年之間記 」
(安政元年十一月)
四日 朝五ツ半時大(江戸カ)地震 されと町家は一向倒家等無之、所
ニ寄武家之古屋敷は少々宛破損は有之由也、同昼過鋤柄氏
へ罷越添状請取被上、同屋敷一向破損等無之由也、其夜九
ツ時地震也
同五日 暁七ツ時伊勢屋安兵衛方を出立す、以前之十人ニ元
白スカ善五郎羽田新蔵同道ニて上下十二人也、同夜程ケ谷
藤屋次郎兵衛泊兼而は鎌倉江之嶋等一見之積ニ候処、大地
震箱根山西は大変之由追々風聞夥敷れバ不立寄
其夜十三度地震ス、各御朱印箱を首ニかけて休ニ居ル
同六日 大礒宿若松屋泊、箱根損候由にて小田原ゟ人馬継立
相断
小田原迄は地震之損格別ニなし、兼而は箱根泊之積ニ候
処、彼宿損し強候由聞ゆれバ、湯本ニ八丁ヨリテ泊ル
同七日 湯本福住九蔵泊、入湯ス、箱根御関所東迄は地震格
別之破損なし、箱根宿本陣二軒外五六軒潰、外は半潰破損
等ニて一軒も人不居、山中も破損あれども潰家少し
三嶋宿ニ下りては誠ニ大変也、三嶋大明神之御本社御門塔
は□レ、拝殿も半潰也、明神前二丁程失火ス、其外大方潰
家斗ニて目も当られぬ次第也
箱根山ニかゝりしゟ駿豆遠等之大小名の大変之飛脚ニ追々
行逢て、問聞く□ニ、何方も大変之由、殊ニ伊豆下田大津
波にて千二百軒之所流失して、漸く廿軒斗も相残れる由、
江戸へ之注進ニ逢て、肝を消す□故、郷もいかゝ有ら
んと、皆々心配してさしもけハしき坂路を歩行としもなく
急ニ畑宿り、西にて当領主の飛脚逢へり、瓦町の人也、先
いかニ哉と問聞くニ、吉田辺も大方ならぬ大変にて、櫓御
門二之丸御殿等も倒れ、家中之家も大損、土塀等も悉く打
崩レ、町方も処々大損シ、海辺には津波上り損たる風聞あ
れ(ママ)て、五日の未明ニ吉田を出たれバ、委くハ知らず、元白
ス(カ)カ新居等へは津波上り、御関所も倒れ、御□蔵も流失、
死人も有之由、渡海も留りたれと、漸々ニ内証こ(カ)しをして
渡り、道々も、倒家之上を越、野宿をして辛くして来れり
と語るニ、皆々肝をひやせり、されと彼辺にハ失火無之、
ゆり□しも始ゆるやか也と語るに、かゝれハ家内の皆共も
命失ふ程ニハあらじと、歎きの中ニ相悦ぶ、兼てハ四日の
夜主水か取計いて、吟味御役所を頼みて羽田西宿共之家も
倒れず家内ニも怪我なしとしらせの状、かの飛脚持居れと
役所ゟ役所への文通なれバ、おのれも露知らず飛脚ノもの
も知らさるこそ無念なれ、されど互ニ力を添あひて、心に
もあらぬざれことなど云あひてゆくもをかし
さて三嶋の宿を過て、伊豆駿河の堺千貫樋をこえて、向新
宿八幡きせ川辺は、地ハ裂たる処あれと倒家ハ少く、ゆる
やかなる方也、沼津ニいたれハ宿中大そんじ倒家も夥敷、
城中櫓御殿等も倒、家中の家々も倒数多と聞り、彼宿をこ
えて五反田間門椿林松長今沢三本松など原宿之間、倒家見
えす
八日 夜原宿おもたか屋といふニ宿とり、此宿はすべて損な
し、夫ゟ一本松助平新田桂田新田柏原よつや毘沙門堂辺す
へて障少なし、こハ一本松村の浜辺ニ要石といふが有て、
汐も夫ゟ上へ上らず、地震もおたやか也と其辺の人々物語
る、元吉原辺ゟ倒家多く、吉原宿大倒れ、下れる時宿れる
家も夫とハ分りかたき程也、三□橋川合橋なども落て、か
は越船こし等ニてわたる、立ハ元市場松岡辺大たをれ也、
富士川をバ無滞わたりて岩淵ニ上れバ、五百軒の家々残な
く倒れて、往来ならずうら道を伝へて、中の郷ニ山々ニ三
百軒の家々多候一軒立りといへり、蒲原宿も大やけ大損シ
也、蒲原を過て由井迄一ノ里之間家続き、村々倒家少く損
しも格別になし
九日 由井宿うとんや四郎兵(カ)衛へ宿る、此宿も格別の倒家な
し、其夜両度斗相ふるい、殊ニ津波後海の西穏ならず、荒
波の音枕元へ聞ゆれハ□寝入ず、夜八ツ頃と思ふ頃宿を立
出る、此宿にて聞けハ、清水湊ハ津波にて大半流れ、其上
不残焼たりといへり、夫ゟ奥津迄之間、町屋原・今宿・倉
沢・さつた山旧村辺格別の事なし、奥津宿東端へは津波入
たる家あれと、倒家ハ格別の事なし、夫ゟ江尻迄の間の宿
余程倒家多し、江尻宿ハ大半焼失てあハれといハんかたな
し、夫ゟ一里山・草なぎ・小(ママ)吉田・栗原の辺倒家あらず、
府中宿ハ九十六町の処、通り筋十六町みな焼たり、殊に御
城櫓御門石垣等夥敷崩れ落て目も当られず、おのれハ善五
郎・新蔵を伴いて、浅間社に詣す、数百の石灯ろう不残倒
れたれと、御本社を始御末社等迄少しの御損シなし、有か
たさ云ハん方なし、夫ゟくら町通ニ安倍川の手前へ出たる
ニ府中ハ広き宿なれは、夫ニ合せてハ損し多からず、みろ
くの辺も格別ニあらず、安倍川を越て手こし、さわたりの
辺も倒家あらず、鞠子宿もさのみ大損しあらず宇都の谷に
ハ倒家すべて見ゑず、穏かなり
十日 岡部宿ニ宿れり、此宿もさまでの倒家もなし、新丁と
いふ辺ゟ倒家多く、横町水もり辺も損多し、藤枝宿ハ東の
入口少し焼たれと損少し、されと田中城ハ大破損にて残な
く倒れ、城主も幕を張て野宿せらるゝ由也、其海辺之村々
大潰之由也、藤枝島田の間二り九丁の内、南あらや水のへ
瀬戸青嶋□□辺嶋田迄すべて倒家なし、大井川水まし殊ニ
故障もあれハ、川止りたれバ、九ツ時ニ宿りぬ
十一日 島田宿莨やニ泊、□奥都(カ)ノ野田ノ後辺日向田原ノ金
田□みまさか爪青津ノ大場□□野田ノ一向僧安楽寺加治ノ同宗浄光
寺いふいつれも、御朱印御改同日ニ済し人々とおちあい
て、上下廿人同宿して、夜□(ムシ)くさ〳〵咄合ヘバ、うさを
忘るゝ斗賑やかなり
十二日 今日も川の口あかず、同シ家ニ逗留す
十三日 五ツ過川をわ越たる、金屋宿は大潰ニて御救小屋二ケ
所ニ立てり、金屋坂を下りて菊川ニはすべて損し家なし、
坂を上りて佐夜の中山ハ大潰れなり、坂を下りて日坂にハ
倒れ家少なし、是ゟしほ井川原大せん寺山はなの辺迄は障
り少なし、掛川の宿ハ一宿残少なく焼失てあハれと云ん方
なし、夫ゟ袋井へ二里十六丁の間の村々の家大かた倒れて
残りたるハ少し
袋井も残少なに焼失て、これも掛川ニ同く、殊ニ肝つぶれ
たり、其間川合木原西嶋抔いふ所も損し多し、見附宿は東
の入口損し多けれと、宿内ハ格別ニなし
十(ママ十四カ)三日 見附宿大江戸屋ニ宿とり、其宿の東より近道ニ入る
ニ、天竜川の辺迄潰家夥敷し、川をこえて潰家多かれと、
天神町の辺より損し少なし、浜松宿も大損しニはあらず、
夫ゟ若林高塚篠原高部辺潰家なし、八ツ時頃舞坂ニいたる
ニ、彼宿ハ潰家ハ少なしといへ共、津波のさハり有之てあ
れなり、いまだ渡海の口あかされバ、宿らんと思へど、今
日も両度斗震いたれバ、津波の上らん事を恐れて、女子児
老人などハ皆松山の小高き処へ小屋をさして逃のきをれ
ハ、宿内ニ人少く宿借せんといふ人もなし、されは疋石川田氏
の知己の川崎屋といふを頼みて、漸々宿れり、さりなから
宿ニは亭主一人のこりて誰もあらず、さらに御朱印を首に
かけて、半夜替代々番をなして、明朝船の出るといふを頼ミ
にして、漸々と夜を明しぬ、凡て此宿ニ限らず、江戸を出
てより十泊の間、凡て宿々夜分ニて家を明て仮小屋ニ打臥
事なれバ、いづれの宿へ泊りても、先逃場を見置て、障子
のみニて戸をハたてず、食事すれバ、火鉢をバ家々おか
ず、夜具を敷て家内の者ハ不残仮小屋へ行けバ、亭主一人
縁にこし打かけ、番をするのみにて凡て、家ノ内ニて火を
焚かず、誠ニ駅内すごる迄さびしく、只夜廻りの火ノ用心
〳〵といいつゝ絶間なく打廻のみ力になりぬ、家等もすべ
て道具を□かず、御朱印を首ニ掛て、すハといハゞ掛出ん
志た構し居る斗也して、殊ニ危き次第也
十五日 朝六ツ半頃出船す、いつもハかこ二人の所四人掛り
ニて渡船す、其日ハ波ことに荒く弁天嶋の辺の並木、北の
方の松ハ大かた倒れたり、四ツ時頃無滞新居へ着船す、そ
こにて同伴の人々ニ別れ、飯田武兵衛か仮小屋また白井氏
疋石川田氏飯田氏元白スカ、内藤氏をも訪いて、互ニ家の破損
ハあれと家内無事なる事を悦ひ合ぬ、新町にて迎ひの人
々、兵庫主水を始大勢来逢ひて、互に無難なる事を悦合ひ
て、暮六ツ時免伝度我家へ帰り着ぬ
十月廿九日出立、下り九日、江戸逗留廿五日、上り十一
日、合四十五日也
先八幡宮を拝するニ、御本社拝殿諸末社石鳥居石垣等迄少
も破損なし、殊ニ有難き限也、されと石大門之東の柱おれ
たるハあかず口をし、されど少しもく(片かカ)たらで其儘立をる
も、いとあやしき事也、文庫も庇少し引けたるのみにて恙
なし、神屋も庇おち、表長屋も庇少し落てくたき、灰部屋
もくたぎぬ、されと居宅座敷等は格別の損等も無之、妻子
うからやから皆悉く恙なき事を互ニ語り合ひて悦べり、神
明宮も本殿ハ恙なくましまひ、廊下ハ少し傾きたれと、拝
殿も同様なれと先ハ恙なし、弁天社ハ地裂たれと大損な
し、石橋は落たり、諸末社みな恙なし、近頃出来たる金毘
羅の社ハ倒れたれととくおこせり、祢宜朝倉房紀か居宅座
敷神屋物置等残なく潰れたり、羽田村百廿軒居宅潰たるハ
一軒もなし、逢人を以互ニ無事を悦合ぬすへて八幡宮氏子村
方西宿西御組西町合
二百五六十軒の内ニて西
町ニ三軒潰家あるのみ也
同十七日 当寺社役所へ御届書差出候
口上之覚
承儀今般
御朱印御改首尾宜相済一昨十五日帰宅仕候、此段御届申上
候 以上
十一月十七日 神主
羽田野常陸印
寺社
御役所
右之書附持参御役所へ罷出候所、町郡役所ハ潰れたれバ、御
馬部屋之長屋を仮役所として、奉行衆始町小頭物書等諸居れ
ハ、書附差出つれバ、奉行衆四人出逢て江戸表之様子、道々
の様子委く相問ハれたり
御櫓 御多門 二ノ丸大書院 御蔵
木其外数々の家の倒れ石垣大崩、家中之家々大破損、土塀ハ大かた崩落て
誠ニ目も当られぬ次第也
されと東西の御組屋敷ハ一軒も倒家なし、されど大御神の大
宮造と同様なる、かやふき掘立柱の作りなれバ、いつれも恙
なしと誠ニ辱くおぼゆ
此吉田領分中遠州をもかけて○即死人十四人内男七人女七人○津波
ニ付死人十四人こハ新居にて怪我人男一人○潰家五百五十三
軒○流失家四軒○寺社潰廿七ケ所○同半潰廿六ケ所○半潰家
八百八軒○土蔵潰百五十三ケ所○同半潰百五十一ケ所○物置
潰七百五ケ所○門潰三十二ケ所○門蔵潰二ケ所○堂潰四ケ所
○今切渡船流失并破船四十八艘○漁船流失并破船九十二艘○
破損家并土蔵物置等数不知○大川通堤并汐除損所八千百四十
四間村数三十三ケ村○同小川堤破損所弐万弐千七百四十間
こハ公儀へ御届ニ相成候惣員数也
○田畑荒合五千六百八十石余村数四十四ケ村○見取田畑九十
町一反歩余高汐并砂入荒五ケ村、領分村々一切火災無し牛馬
怪我無し右ニ付御領主ゟ被下米御拝借米夥敷町在へ出ル
当文庫ニ於而も兼而非常手当金積置、かゝる時夫々へ見舞と
して遣すべく評義いたし置候へ共、未其義も調ハず候ニ付、
有志之輩申合せ、潰家一軒ニ付餅一重東味噌一重合二重、重
箱共ニ遣ハし申候
元新町五軒 今新町十六軒 鍛冶町二軒
曲尺手町一軒 曲尺手地内町地内一軒 松木町五軒
本町三軒 中瀬古(カ)上伝馬町一軒 田町三軒
船町十一軒 元鍛冶町四軒 魚町九軒
松笠町一軒 抱六町三軒 紺屋町三軒
手間(習カ)町五軒 新□町五軒 中芝四軒
西町二軒 畑か中一軒 中瀬古一軒
□合宮二軒 下地村四十七軒 飽海村一軒
野田村七軒 吉川村四軒 三相村五軒
馬見川崎共塚村十七軒 高須新川崎共田八軒 青竹内出火二新田一軒
中不川崎共二見新田一軒富久縞新田三軒
右町地七十三軒町裏十五軒、飽海一軒下地四十七軒、吉田方
四十六軒合百八十二軒、外ニ羽田村近所困窮并当家出入の者
六軒これハ重箱なしニ遣、惣合百八十八軒へ遣申候
右入用一金三両弐分ト三百六十文 餅米六俵斗
一金六両ト弐分 重箱代七寸四ツ組四匁三分ならし一ツヘ
モチ廿四入
一金弐両三分 東味噌代一軒百文ナラシ
一金壱朱ト三〆六百四十文、飯米壱斗粉米五升酒二升もち
付配り人足八人日雇薪木其外雑費〆
入用惣〆金拾弐両三分弐朱ト四百四十文也 此割
一金壱両弐分金弐分弐朱モチ米一俵代御城内
加治清右衛門殿
一金弐両壱分 広岩主水
一金弐両 福谷藤左衛門
一金壱両弐分 佐野権右衛門
一金壱両壱分弐朱 鈴木七郎右衛門
一金壱両 高次久太夫
一金三分弐朱 久田卯平
一金壱両弐朱 中野市十郎
一金壱分弐朱 羽田野
一金壱分弐朱 御文庫金ゟ
合十三両也
右重箱ふたへ羽田文庫の焼印をおし、子札ニは御見舞文庫幹事の印を
おしたり
右寅十二月廿二日ゟ同廿四日迄三ケ日相掛り申候
卯十二月 町郡奉行所ニ於て奉行衆四人列座ニ而
昨年地震之節、潰軒之者共へ施シ致候段、奇特之事ニ被思
召候、依之御酒料被下置候段演説有之
金三百疋青銅三十疋 羽田村八幡文庫世話人中へ被下候
依之御礼御宅廻り、御家老二御奉行ノ四勝手方四地方三広
岩主水佐野権右衛門罷出候
寅十二月七日当寺社御役所ゟ御触到来当月五日
安政は年号改元被仰出候旨
寅十二月地震破損有之候ニ付、八幡社中御茶屋坂山、松六
尺余廻りゟ弐尺廻迄之三十五本、とち其外雑木三十本代金
廿三両ニて相払申候
右之代料之内ニて調へ候物
一八幡宮拝殿幕 一 百十二匁七分 ヒダアサ
五反半
代金弐両三分二 三十三匁五匁十四匁五分□□
仕立代
まく繩□□
一神前大太鼓一張替 サシワタシ一尺五寸
替之代金壱両弐分 胴ニ宝暦年中作トアリ
六年子四月吉日
大坂渡辺村北ノ丁
播磨屋源兵へトアリ
一大門石灯楼火ぶくろ二右地震ニてワレ候ニ付仕候也
代金壱両弐分
一釘貫門柱一本 これも地震ニて損候ニ付
代金弐両弐分弐朱
一大門石橋前石灯楼二基、中門北側氏子中ゟ造立いたし候
所、大ニ延引翌卯三月廿三日出来ニ相成建申候
当寅年吉田蔵米
村方取立十七俵八分銭六貫七百五文 壱俵代金弐分四百十六文
壱升代百八文
八幡宮御神木之松枯候処、先達而相払右之料ニて随随身神神二軀
相求候処、尚又かれ枝木有之、今般相払、鈴真鍮一口御鬮筒一
相求申候
真鍮鈴代廿匁銘彫料弐百文五寸御鬮一代七匁右名古屋十一屋にて
相求申候
鈴之銘 三河国渥美郡吉田方郷羽田村
八幡宮神鈴一口
嘉永七年甲寅九月奉掛之 神主羽田埜常陸敬雄同緒之歌
[大前邇掛留鈴之音清潔那流|オホマヘニカクルスズガネサヤカナル]・[真心乎以氐祢宜言波為与|マゴコロヲモテネギコトハセヨ]
神鬮銘 三河国渥美郡羽田村
八幡宮神鬮 神主羽田野常陸敬雄
(表紙)「 安政二年
羽田埜神主
万歳書留控
乙卯正月同三辰同五午同四巳合四ケ年記 」
○旧寅十一月四日大地震後、海辺潮毎度高みち致候処、当卯
七月廿六日大風雨有之、其砌[高満|シケ]ニて、海辺新田共堤打
切、所々大破損ニ有之候処、尚又八月廿日大風雨ニて、又
々高みち致、海辺新田堤共不残打きれ、不二見新田は大破
損、青竹も同様、高須も一ケ所打切、其外皆々大破ニ候
処、松広岩主水持崎新田は去地震之時ゟ全く損無之、当年両度共ニ汐
は不入候へ共水こみ入候而、橋□は大に□候
同九日廿八日暮六ツ時余程之大地震也、不思議なるハ、其
節ゟ高満直り平常之汐ニ相成候
○去ル寅十一月四日之大地震之節、八幡宮石神門東之柱下ゟ
二尺程上ニてゆり打れ候得共、其尽立チてあり、同所石灯
楼二台ならず倒れ、火ふくろ二ツ共ニ損ス依而卯十一月六
日修造ス
一金弐両弐分弐朱 石神門柱一本
川岸届代
一金壱両 右立まへ車力わたし
十七人半かゝり北側権右衛門
一三百廿四文 立上り之時酒二升
一金弐朱 近所并出入のもの
はしら落(荷カ)之運人足十人御入用
一五百文 大工夫金等入用
一金壱両弐分 石とうろう
火袋二ツ
一金弐朱ト五匁五分 石や浅吉
四人半石工料
一百文 さかな
いも煮代
一弐百五十文 なハ二束代
惣〆金五両弐分弐朱百十二文惣入用也
(表紙)「従天保十五甲辰年
至安政三乙辰年
御触書留帳
羽田埜 」
此節度々地震有之候ニ付而は此後之義も難斗銘々立退方之義
心得も可有之候へ共兼々火之元之義厳重ニ手当いたし置早速
立退之為向々へ可被達置事
十一月
右之通従 公義 □□
十一月廿七日 四人印
去月四日稀成地震ニ付為伺安否来ル廿八日朝四ツ時被致登城
玄関へ名札可被差出候尤病気故障にも有之□(ムシ)来廿五日迄ニ
役所へ書付可被差出候 以(カ)上
寅十二月廿一日
酉中刻 寺社役所
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 1179
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 愛知
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