[未校訂](変化抄)
嘉永七寅十(四月六日)春京都大火内裏御炎上一月四日朝五ツ半時大地震(伊豆、相模大震災、午前九時)ニ而、当村三拾弐軒皆
潰(入野村)、其余過半大破、本(竹村)家土蔵壱長屋小屋皆潰余大破、手前土
蔵半潰長屋隠宅味噌部屋皆潰、仮小屋作り十四五日もやとり
て、
おもひきやかりふく小屋の苫をあらみ思はぬ冬の月を見
むとは
冬草をかりねの床のさむしろにかたしく月の影そみにし
む
ふみにハあれといとかく迄ハあらかねの土さけてける四
方の八十国
隠宅もつふれけるとき
のかれいてしけふさを鹿の入野原の枯し草葉にすみまよ
ひけり
当村、即死壱人平三郎内、其余怪我人壱人も無之、伊場・西
鴨江・志都呂壱軒も潰家無之、前通村々是又左程ニは無之
候、山崎村ニ而は家潰手足挾まれかなしみ候ニ付、人々寄切
出し可申寄候処へ、津濤打来候と呼立候得は、其儘打すて逃
け去候由、被挾居候当人ハ其節之心中思ひやられ候、右様之
始末所々に有之候
同五日晩七(午後四時)ツ過之比、申(西南西)酉の冲方くらくなり鳴声天地震動し
て山も崩る計の音にて、津波来ると呼去、一同にあはて山へ
逃去ル騒動之其有様、飯櫃を持出し後より打来ると呼声に其
櫃を捨て逃行もあり、或ハ麦米をかつき、死なハ一所と呼立
泣わめき、長持荷ひ、老人の手を引、又は娘両親を両手にて
引するも有、病人を稲越舟へ入するも有、鰡雑炊鍋を提山中
かけ廻るも、其道之上を下へと騒動致し、其夜山或ハ畑に寝
候者余程有之候趣、前通村々より当村又は伊場迄かけ付候、
我家ハ道より奥故に一向に不存候処、後にて承り候趣、此辺
ハさも有そふな筈、浜松又は内野辺ニ而も山へ上り候咄、前
通五嶋其外村々のさわき故、愚筆にてハ書あらはし難及(ママ)あら
ましを筆記す、今切湊ハ凡弐百間計之処、津濤打来七百間に
相成、杭あらはれ出候、是宝永年中大地震荒に打候杭なりと
申候、此度蛇籠并かむき石垣大破ニ付、数千艘之石を以御修
覆外三四百間之程三間余之大杭数本御打被成候処、波荒にて
押流し、又候打申候、安政二年卯六月迄日々両三度ツゝゆり
不止有之候処七月廿六日大風雨にて高汐来田畑荒候処、高の
みの分ハ少残候処、又候八月十九日より廿日大風雨ニ而高汐
満来、堤打越人々之居屋敷ニ乗、毘沙門堂より本家前道迄付
く、薬師堂より北通三途迄乗り申候、田畑并川畔不残汐腐ニ
相成、東山田井ノ元漸残り候得共、汐風ニ而皆無人々種を
失ひ申候、舞坂より西篠原迄前後高汐、西鴨江・片草・志都
呂・宇布見皆無種なし、当村菜蕎麦大荒ニ相成、されと山蔭
之畑御座候家ハよく種を取、余種無シに相成候、是迄度々地
震有之候度々堂地へ乗り候事壱尺位、当村目印之石より平水
壱尺五寸も高く相成、関西ニ而は弐尺ト言、伊勢御師手代申
候ニは、弐尺五寸高ク相成候由、当国相良・白羽・駒形右是
迄不見処弐尺余あらわれ出候と申候処、同九月廿八日暮(午後六時)六ツ
時又候大地震ニ而、手前共手入致候分大破損ニ相成、陽徳庵
本堂潰同様、寅(安政元年)年地震ゟハ余程ゆるやかに候処、前通村々ハ
余程強く米津村廿七間皆潰之由白羽・中田嶋辺寅年同様泥水
吹出渡り候由、当村は此度之大地震にて元々へゆり直し候趣
ニ而、汐ハ満来不申、夫より段々当村人気少し立直り候気合
ニ相成申候、扨相良・駒形右も水底に相成以前之通ニ候由ニ
承り及候
浜松ハ寺院本堂或ハ庫裏六ケ寺潰、門弐ケ寺潰、町方七軒皆
潰、大(現栄町)堀長屋同断、即死弐人、土蔵大破かそへかたし、御城
長屋皆潰、所々大破
三嶋村より下、潰家多く其上泥水吹出し流れわたり候由、田
畑高低に変地し、町屋辺家過半潰、同泥水吹出し膝を過候位
に流わたり、田畑変地下、掛塚家皆潰弐百軒、潰同様三百
軒、近辺所々弐三尺位ゑみ、同泥水吹出しわたり候由
池田ハ潰少し、夫より下前野・保六嶋近辺不残皆潰、福出(田)・
駒場近辺別而皆潰、中泉ハ左程にも無之由、夫より村々潰家
多く、横須賀過半潰、近辺同断、御城下残潰、夫より川尻近
辺潰家多く、相良・川崎辺同断、見附宿裏通り潰家多く、土
蔵大破、即死七人之由、河合皆潰焼失なし袋井皆潰之上焼失
死人六十余之由ニ承り候、旅人も余程死人有候、旅宿之寺方
御朱印を焼候も有之候由、怪我旁々員数不知、荒屋・久津部
村不残皆潰、掛川皆潰之上不残焼失、死人袋井よりハ大(カ)、宿
ニ而も死人ハ至て少き由ニ承り候、大手潰城内大破之由、森
ハ左程にも無之、山梨潰之上不残焼失、其余近辺大潰之由ニ
承り候、忰安(一八五六)政三辰年三月要々之儀有之通行致候ニ付承り筆
記仕候