Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J1800430
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔静岡県周智郡誌〕T6・12・10 静岡県周智郡教育会
本文
[未校訂]第一項 安政元年十一月四日大地震
安政の震災は郡下一般甚だ激烈にして其の被害亦莫大なりき
と雖も、其の詳細なる状況に至つては今之を取調ぶるの途な
し。依て森町の近傍に於ける故老の記憶をもとゝし左に一二
の概況を記述す。
一 震災概況
一安政元寅年十一月四日午前八時頃(時間は現時の称呼に依る)西南位
より震動し凡十分間にして止む。尤も初めは微震にして
漸次強震を加へ、又直動にあらずして波動なりし。
二強震後は凡三十分間を隔つる毎に二分或は三分間の動揺
あり、五六日経過の後は凡一時間を隔てて動揺せり、而
して同月十五日に至り始めて動揺の回数を少しく減少し
たり。
三強震未だ止まざるに忽然西南より東北へ弥りて淡黒色な
る一帯の雲気長く天に蔓延するを見たり。
四強震あるや井水は悉く汚濁せざるものなく。七八日を隔
てゝ孰れも少しく水色を表はせり。尤も飲料に供するに
至りしは悉皆浚渫しての後なりし。而して其の間飲料水
は二三の汚濁少なき井戸を撰び以て需用に供したり。但
汚濁少き井戸は別に位置を異にせしものにあらずして汚
濁甚だしきものゝ間にありしものなりし。
附言、井戸の周囲は概ね丸き石を以て積み上げたるも
のにして木材にて囲みたるもの少し。
五強震後凡そ一時間を隔てゝ俄かに太田川の水量平水より
増加すること凡そ五尺(冬期平水より減少すること凡そ十分の三を通例とす)にして、
濁浪暴漲し高二尺強の波動を見しが、二日間を経過して
全く冬季普通の水量に復せり。
附言 太田川満水の際鍬魚なるものを漁せし数甚だ多
くして幾許なるを知らず、是平常森町近傍に生
ぜざる魚なり。
六強震の日は少しく曇天にして快晴と云ふを得ず。気候は
極寒なりし。翌五日より十五日迄は晴天にして気候は同
じく極寒なり。十六日正午に至り雨天となりたり。
七強震より十五日夜に至る迄は人民悉く露宿し、十六日雨
天となるを見て人々初めて家屋に入りたり。是れ強震後
降雨あれば再び強震の患なしと往古よりの伝聞ありしに
よる。然れども凡三四十日の間は夜に入るも門戸を鎖せ
しものなし。
八強震の際は地面凡二尺位の動揺を見たり。
九強震後三十分或は一時間毎の動揺には其の前必ず轟々た
る鳴動の響ありし。
十強震の動揺数十回は十五日に至り減少せしと雖も其の微
震に至ては当年(安政元年)中は常に動揺し勿論翌年に至る
迄回数は到底算するに遑あらず。
十一、強震の前三日間は快晴にして寒気強く、毫も強震の
前兆たる事の状況を見聞せず。
十二強震の日より十五日に至る十二日間は毫も風なし。
二 郡下被害の状況
【人畜の死傷】圧死凡そ六十人。負傷者は夥多にして挙げ
て数ふべからず。畜類の死傷も亦少からずと雖も其の数不
詳なり。
【家屋の倒壊】全潰凡そ千四百戸余、中潰凡そ五百戸余に
して、其の他附属建物の倒壊は枚挙に遑あらず。尤も森町
以南の村落に於ては被害甚だしかりしが、其の北部に至て
は山上の家屋が山崩れの為めに転落せしものを除くの外は
倒壊甚だ少かりしものゝ如し、是れ北部の家屋の構造自然
堅牢なりしによるか、若しくは震動の度が南部に比して幾
分か軽微なりしに依るものならん。
【土地の陥没】土地の陥没は数十ケ所にして其の面積亦広
大なれども詳細なる調査を為す能はず。今其の状況の一二
を挙ぐれば、一ケ所に於て五反歩余の田面陥没して原形を
失ひ沼地となり、現時に至るも猶ほ開墾の目的を達せざる
ものあり。或は一反歩余の田の面凸凹となり泥水を噴出す
る等のもの少からず。而して其の陥没せしものは悉く泥水
を噴出すること甚しかりし。
【道路堤塘橋梁の破壊】一般の被害甚だしく、就中森町以
南に在ては概ね破壊し、堤塘の如きは総て平地となりしも
の少からず。然れども其の詳細なる調査は不明なり。
【樹木の折倒】無数なり。
【火災焼失】戸数百六十戸余にして、内山梨村上山梨に於
て百五十戸の焼失あり。其の他附属建物の焼失の数は不詳
なり。
【海嘯】無し
三 震災後恤救に関する事項
恤救の事項は各領主等により一定ならず。故に現時の各町
村に於て概略取調べたるものを左に列記す。
【久努西村】は領主より各戸に付小家掛用材とし領主持の
山林より数百本を分与せられ、或は各戸に付米一俵并金二
分宛を分与せられ、又災害視察として江戸屋敷より役人出
張ありたり。
【山梨町】は有志者に於て米六十三石を義捐して救助に充
て、又領主より米二十九石六斗一升を下与せられ、又焼失
者一戸に付金参円潰家一戸に付金壱円弐分宛分与せらる。
且つ又震災年度に係る貢米は焼失者十ケ年賦割済にて、地
主の小作人に対するものは小作人付米の半額を徴収し、焼
失者は免除せり。
【宇刈村】は当時の各村より領主地頭へ恤救方歎願したる
も、毫も恤救なきのみならず、却て御城大破の趣を以て課
役を申付られ、杉皮、竹木等運上又は運搬等の為め人民の
困苦少からず、倒壊せし農家の建築は細民に至ては慶応、
明治の頃に至り漸く建築するに至れり。
【飯田村】は潰家は地頭より毎戸米一俸并松木三十本宛下
附せられたり。
【園田村及一宮村】は不詳。
【森町】は領主よりそれ〴〵金員米穀を以て救助せられ
又、有志者に於て義捐せしもの少からず。然れども其の金
額等に至ては古老の記憶に存せず。尤も平常極貧の者は領
主の恤救と有志者の義捐等により被害後は却て生計の裕か
なりしものありしと云ふ。
天方村以北の各村は恤救事項なし。
震災後家屋建築等に関する布令書は未詳なり。其の実際施行
したるものは多く土代敷板屋葺家屋を建築し、細民は柱を土
中へ一二尺堀込み藁葺となしたる家屋を作り住居せり。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 1132
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 静岡
市区町村 【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.002秒