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項目 内容
ID J1800397
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔郷土災害史 (7)(10)~(14)〕○静岡県相良町
本文
[未校訂]S49 「広報相良」
(安政の大地震 その3)川原崎次郎
相良町松本の川田憲一氏宅に天保五年(一八三四)から慶応
四年(一八六八)まで、三十五年間のできごとを日記体に書
いた「願事態書付控帳」という古記録がある。
これは当時、相良藩(藩主、田沼玄蕃頭意尊、一万一千二百
四十石)四十か村の一つであつた松本村の村役人(組頭)で
あつた同家の先代、川田藤重郎の記述で、この中に「安政大
地震」の項目がある。
およそ相良町で安政大地震の史料として現存するのは〔後述
するが〕このほか「相良役所文書」一部と「大沢寺の記録」
(地震記)および香川蘆角先生の「地震年代記」あわせて四
種である。このうち「地震年代記」はその全文が相良史(山
本五朗著)にあるが、残念ながら文書そのものは今、残つて
いない。
川田家の記録をみるとこの地震で田沼領四十か村全域で、七
百軒の民家が全壊、後は残らず半潰したというから、まさに
古今未曾有の大地震であつた。
当時、松本村には家(戸)数が四十一軒あつて(註 安政五
年同村川田儀一郎家文書によると三十九軒)この大地震で二
十三軒が全潰、十八軒が半潰と記されている。
最もあわれだつたのは同村の庄十という家で、十五歳になる
娘と生後間もない弟が、家から外に逃げきれず、軒げたの下
敷となり圧死したという惨事であつた。
相良町内の被害模様については、
「相良残らずつぶれ、そのうえ市場町で出火、横町でも火災
が起き、死者二十九人が出た。町方は逃場がないので死んだ
人が多かつた」とあつて、地震にともなう火災発生の恐ろし
さを示している。
もつとも火災被害は掛川の死者百人程。袋井の死者二百人程
と比べると少ない。
この辺で大津波は四日と五日の二回襲来し、相良下町(福岡
通り)までもあがつて床上浸水の状況であつたというからた
いへんであつた。
また、地割れがしてどろ水が湧き、川ふちがかけて流路がふ
さがるという被害も各所におこつた。
殿様(相良藩)は全壊の家へ米一斗ずつ、半壊の家へ三升五
合ずつの救援米を下げ渡している。
(安政の大地震 その6)川原崎次郎
安政大地震当時この地方は相良藩主、田沼玄蕃頭意尊の所領
(四十か村、一万一千石)であつた。地震直後、各村々の村
役人は藩令により、自村の被害状況を詳細に調べ、相良御役
所に提出した。
筆者が二十年前に入手した「相良御役所旧蔵文書」の中に、
たまたまこの届出文書が発見されたが、旧蔵中すでに雨もり
のためか水濡れの痛みがひどく、ごく一部分しか確認するこ
とができないのはまことに残念である。
もとはたしか四十か村全村のものが報告されてあつたはずだ
が、現存するのは蛭ケ谷村、西山寺村、徳村、須々木村の四
か村分のみで、加えて欠損の部分もあるが、公文書である地
震史料としては、この地方で唯一の稀有文書といえよう。以
下、判読可能な部分を掲記しておこう。この文書は今回、災
害史を寄稿するに当り、はじめて(百二十年ぶりに)公表す
るものであることを付記する。
○蛭ケ谷村の分
(前文等欠損)
□家、七拾四軒
内 拾六軒 伏家
拾弐軒 中痛
残里 小痛
十二月七日 蛭ケ谷村
百姓代
吉右衛門印
組頭
清三郎印
庄屋
十郎左衛門印
相良
御役所
○徳村の分
(同じく前分等欠損)
一家数 拾八軒 徳村

□家 拾軒 伏家
雪隠 七軒 同断
同 五軒 大痛
右ハ去ル十一月四日大地震ニ付前書之通り□□仕依之取調
奉差上候 以上
嘉永七寅年
十二日七日
徳村
庄屋
理兵衛印
相良
御役所
(安政の大地震 その7)川原崎次郎
○須々木村(前半が欠けている)
一居宅 三拾□軒 大痛
一居宅 四拾軒 中痛
一居宅 六拾壱軒 小痛
一寺 壱ケ寺 大痛
一寺 壱ケ寺 中痛
一社 壱社 中痛
右之通り地震ニ付、伏家、大中、小痛奉書上候通相違無御
座候、右之外、脇家、雪隠、大中、小痛□□御座候得共、
取調□□不申上候 以上
嘉永七年寅ノ十二月
榛原郡須々木村
組頭
佐五右衛門印
相良 御役所
○西山寺村の分(前半の主要部分が欠)
一西山寺 壱ケ寺 半潰

一壱軒 護摩堂 潰家
一壱軒 長屋 雪隠共潰家

□居家 六軒 惣潰
同 弐軒 半潰
雪隠 壱軒 潰家
去ル十一月四日大地震急難ニ付、前書之通書上奉差上候、
誠ニ村中一同途方に暮罷在候処、御上様格別之御慈悲以御
見分被成下候故、村中一同難有仕合奉存候、依而如件
嘉永七年寅十一月
西山寺村
組頭
文三郎 印

治兵衛 印相良 御役所
史料は多くを語らないが、伏家とか惣潰と記されているのは
明らかに全く倒壊した家数であることがわかり、その他の被
害度については、大・中・小痛などと区分けされている。
また、この文書をみて気付くことは、家数について、居宅
(居家)と脇家、雪隠と分けてあり、各村によつてその様式
がまちまちであるため、戸数に対する倒壊率が出しにくい面
もある。
蛭ケ谷村の七十四軒、徳村の十八軒とあるのは、おそらく脇
家などが含まれた棟数を意味しているものと思われる。
注・幕末期における蛭ケ谷村の戸数は三十五軒で、徳村の
戸数は十二軒である。
(被害の多い軟弱地盤)川原崎次郎
昨年の八月、隣りの浜岡町比木原、萩原佐三郎家(当主)か
ら安政大地震の被災状況を記録した「大地震痛家書上帳」が
発見された。
これは当時、比木村藪下ケ谷部落のもので、全戸数七十世帯
のうち死者一人が出たほか、二十二世帯と寺一か所の建物が
被害にあつた。
内訳けは居宅十四棟と脇家十二棟、土蔵二棟が全壊に当たる
「伏家」または「大痛」。寺一棟、居宅二棟、脇家五棟が「中
痛」。居宅四十八棟が「小痛」等と記されている。
また、最近、小笠町高橋の医師、松下栄さん方からも「大地
震記録」が見つかつた。
同家の先代である名医、良伯貞国氏が和紙十五頁にわたつて
書き残したもので、地震が起きたときの模様や近在の被害状
態について情報をまとめている。
それによると、地震が発生した十一月四日は冬至の翌日午前
十時ごろ。その瞬間のようすを「庭にあるシイの大木がザワ
ザワとうなり、自宅も周りの民家も目の前で、次々につぶれ
火災が各所で起きた。掛川、袋井宿からも火の手があがるの
を見た。また、田んぼの水は畦を越えてとび出し、山崩れは
数え切れない。道路もズタズタに寸断された。人々は二度、
三度ところびながら逃げ場をさがした。前代未聞の大地震で
ある。」
などと書いてある。
被災の残存資料はおよそ以上につきるが、当相良町域の詳細
は不明の点が多い。前述、川田家文書によると、相良残らず
潰れ、そのうえ市場町から出火して、圧死、焼死の別は不明
だが二十九人の犠牲者がでている。「町方は逃場なき故死人
多し」とある点など、今日、防災対策を考える上での教訓と
なろう。
次に、地盤の硬度による倒壊家屋の被害率を考えてみよう。
すでに述べた史料によつて、村別の全壊戸数をまとめると次
のようになる。
部落名
戸数
全壊戸数
倒壊率
松本村
三九
二三
六一%
徳村
一八
一〇
五五%
蛭ケ谷村
三五
一六
四四%
比木藪下ケ谷
七〇
一四
二〇%
このように判明するわずかな史料からみても、軟弱な沖積地
層にある部落(徳村、松本)と牧之原層や相良層、時ケ谷層
などの固い第三期層の地盤にある部落(蛭ケ谷、比木原)と
では倒壊率にかなりの差があり、堅固な地盤ほど被害の少な
いことが注目される。
(安政地震の津波)川原崎次郎
安政大地震の津波の水位は五メートル以上の大型であつたら
しく、樋尻川口、萩間川口から川に沿つて逆上、ものすごい
勢いで浸入し、市街部低地が水没、流失家屋も少なくなかつ
たようである。
先に紹介した「松下良伯貞国」氏の記録によつて萩間川沿い
の被害状況をみると、湊橋を大破しのみこんだ大津波は徳村
の理兵衛家(大沢の元、と牛場西)の東まで大波が打上げ、
川口の漁船三そうが徳村の地内に打上がつたという。また、
古老の口碑によると、樋尻川から浸入した大津波は、西は鎌
倉河岸=下波津水路=まで打寄せ、東は下町(福岡)一帯に
浸水の大被害を出し、海辺にけい留してあつた漁船が浄心寺
の東方まで波に乗つて流入したという。このようなことか
ら、大沢寺地震記(前述)にいう畠に張つた海水が引いた
後、魚族がくぼ地に残留し、地元民がこの魚を拾い、煮て食
べたという記事もうなずかれよう。
安政の大地震の結果、相良、御前崎付近一帯は約一メートル
ほど地盤が隆起したことに注目したい。
萩間川口の相良港は天然の良港で、近世、千石船が自由に出
入りして、年貢米などの集積地として非常に繁栄したが、こ
の地震で水深三尺余を減じ、従来湊橋(いまの元橋)あたり
まで往来した船舶も、以後、五百石以下の船でなくては出入
りができなくなつてしまつた。
(著しく前進した相良海岸線)川原崎次郎
近世における相良町付近の渚線の変遷を筆者所蔵の寛政十二
年(一八〇〇)「相良町、福岡町入会波砂除絵図面」によつ
てみると、今の相生町通り一帯の御林(松並)の外側は残ら
ず、「相良町分塩浜」となつておりおよそ宝永地震の隆起後、
現在の国道一五〇号線外側辺が当時の波打際であつた。な
お、安政地震後の隆起と前代からの漂砂の流動堆積によつて
現在の海岸線が形成された。
ただし、近、現代の駿河湾西海岸の平均的地盤沈下はわずか
ではあるが進行しており、この傾動が来るべき大地震の前ぶ
れの一つである点は、本稿のはじめに述べたとおりである。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 1041
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 静岡
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