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項目 内容
ID J1800396
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔郷土史話〕S45・3・31 相良町文化財専門委員川原崎次郎ほか編
本文
[未校訂]集
安政大地震余聞
山崎市五郎
安政元年十一月四日(一八五四)この朝も静かに明けて、農
夫は畑に、漁夫の或る者は、例によつて浜廻りなどしてい
た。
相良町横町饅頭屋の鉄坊(当時七才位)も祖父に連れられ、
樋の口川あたりを歩いていた時、突然の大地震。
町内の家屋残らず倒半潰した様子を見た祖父は、鉄坊を附近
にあつた角ボーラに入れて、すぐ帰つてくるからおとなしく
しているよう言い含めて、走り家の方に急いだ。
鉄の祖父は、家の大騒ぎもさること乍ら、子供を浜に置いて
来たので、又余震最中を戻つて元の処に来て見ると、孫の鉄
は津浪の引き潮に乗つてどんどん沖へ引かれて行く最中であ
つた。引き潮は早し、潰れた家や、大量のごみも一緒である
ので、唯あれよあれよと見ている始末であつた。折から『津
浪が又来るぞう』と言う声に沖を見ると山のような津浪の襲
来。第一回目は、潰れた家の廻りをうろうろしている刻に来
たのだつたろう。一旦愛鷹岩あたりまで引いた津浪は、一切
の物を押し込めるように相良の浜に再度来た。夥しい浮遊物
は悪魔のように浜一帯をうずめた。又引く刻が来た。鉄坊の
祖父は、遙か彼方の杭に角ボーラの引懸つているのを見つ
け、飛んで行つて見ると、その中に鉄坊の元気な姿があつ
た。町民は皆祖父の言葉通りおとなしくしていた鉄坊の孝心
の徳とうわさした。
尚鉄坊は八十二才まで長命された由である。(落居植田五一
氏、祖母ぎん、相良町前浜生れ談による)
その日は冬至であつて、寺小屋の師匠宅では教える子供(ママ)
御馳走を作つて招待する日であつた。市太夫も朋輩と一緒
に、師匠である和尚の住む弧雲寺に出かけて、御馳走の出来
るのを待つていた。御馳走と言つても、里芋のうま煮と豆腐
の八汁に赤飯位であつたろう。
一同は目白が渡つて来るので、それを捕りに近くの山蔭で友
人と息を堪らして、もち棒に懸るのを見ている時に突然の大
地震。
寺は東の方から倒れて、全潰、やがて煮焚の火から、出火、
余震の中で全焼した。津浪の事は余り話がなかつた。
村では、殆んど家屋は倒潰し。長く余震が続いたので、上の
山(地名)の仮屋で生活した。この後からは立派な家が追々
建ち始め、建築方面でも、新時代にはいる訳である。(祖父
市五郎より少年の時聞きたる話)
次に海岸の方ではどうだつたろう。
県道薄原線の遠渡坂近く右側の山の下に、小さい井戸のある
一画がある。これが三ボラ屋敷である。安政の大地震当時、
清水一男さんの先代は此の土地に住み、津波の時家の納戸に
ボラが三本飛び込んで来たのでこの地を、三ボラ屋敷と言
い、井戸を三ボラ井戸と言う。
なお新庄地区には次のような話が語り継がれている。大窪彦
太郎氏の先代一家は、この時近くの竹藪に逃れている時、母
が産気付き、近くの梅の木を見乍ら男児を安産したので、そ
の児に梅平と名付けた由である。
(松下貞一氏談)
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 1040
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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