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項目 内容
ID J1800349
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔わが郷土清水〕○静岡県
本文
[未校訂]S37・5・1 鈴木繁三著・戸田書店
安政元年の
大地震
安政元年(一八五四)の大地しんで、三保[真|ま]
[崎|さき]の地は、大かんぼつし、その上、津浪がお
こつて耕地の大部分が砂でうずまつてしまつた。ことに、代
官領になつていた新田はもつともはなはだしく、全滅した。
代官所のしらべによると
総反別 二十八町七反六歩の内
[七町二反七畝二十一歩………塩入田二十一町四反二畝十五歩……津浪で荒れた田]
そこで、名主平左衛門と清左衛門、それに組頭の文助、百姓
代の予五兵衛たちが、年ぷで返済する方法で三百両借りたい
と代官所へ願い出た。代官所としても、荒地のままでは年貢
米も入らぬので、差しあたり五十両、引きつづいて追加金と
して、八十両貸し与えた。
しかし、この甚大な被害に対しては百三十両ばかりの援助資
金では、焼石に水で、どうにもならなかつた。その上、ひで
りが打ちつづいたので、百姓たちの苦しみはたとえようもな
かつた。食うに困つた百姓たちは、それにも屈せず耕地の復
旧につとめたが、ほとんど効果がなかつた。そこで、やむを
えず、翌年四月、百姓たちはふたたび相談して、代官所へ荒
地の税を免じて欲しいと願い出た。しかし、その願い出も許
されなかつた。[途方|とほう]にくれた小前百姓たちは、十月八日、勘
定奉行の大竹伊兵衛が清水の焼けあとを検分するため、当地
に来ることを聞いて、与八郎・清六・幸右衛門の三人、また
(註)また願い出たが、聞き入れられなかつた。
(註) 天保十三年(一八四二)名主清右衛門・平左衛門・
組頭勘兵衛・百姓伊左衛門、寺社奉行の松平伊賀守
に、かご[訴|うつた]えをして[所払|ところはら]いとなり村から追放された
が、やがて、ようやく許された事件がある。
新地のもつれ
とやかくしているうちに、内海の一部に新
しい土地が隆起した。これは、まさに、生
きる道を失つた百姓たちに、一るの光明であつた。それは
[乾尻|いぬいじり]・[江湖|えこ]・[平太夫島|ひらだいうじま]・貝島・[宇豆久呂|うつくろ]の海岸が[付寄洲|つきよりす]のよ
うに隆起したのである。これこそ、神のめぐみであると、百
姓たちは大いに喜んだ。さつそく、この土地を開こんしたい
と神官太田に依頼をしたところ「海岸は社領であるから、も
し開こんしたなら、また代官領にとられてしまうから、開発
は許されない」と、すげなくことわられた。
しかし、彼は困つている百姓の願いを断つておきながら、い
つぽう代官所へ運動して自分の親せきである野村戸作ととも
に、数十町歩にわたる土地を開こんし、ほかに、わずかの土
地を村役人と親しい者たちに割りあてる予定で開こんをはじ
めた。 (後略)
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 841
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 静岡
市区町村 清水【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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