[未校訂](2) 岐阜県下の被害状況
岐阜県災異誌に集録されている記事によると、安政地震によ
る被害は次のとおりである。
「美濃国にては三日夜ふけより雪降り、四日五ツ頃高須、
大垣、加納、不破郡、土岐郡、恵那にては倒壊家屋少なから
ず。堤防道路の割裂あり。且つ家屋の小破、壁の剝落等甚だ
多く、余震引き続き、一ケ月に渡り数十回あり。鳴動聞えて
人心恟々し、雪中小屋を建て避難せりと云う。而して、山県
郡伊自良にては戸障子外ずる云々とあるより見れば、北濃に
行くに従い軽かりしならん。当時陣屋住居向その他家中、
町、郷共破損に付き、高須藩主へ向け一千両、大垣藩主に向
け四千両拝借仰せ付けらる旨云々とあり。」(美濃気候編)
この記録からみる限り、濃尾平野西部の大垣、高須輪中
(海津郡)とその周辺一帯の被害が最大であり、平野北部の不
破郡や岐阜市付近でも比較的大きな被害があつたことがうか
がわれる。しかし、一方、土岐郡、恵那郡など山間の地域で
も家屋が倒壊したとされているから、山地部でも震動が強烈
であつたのだろう。
静岡県などでは、大正初期に編纂された郡誌に安政地震の
被害が克明に記録されているが、岐阜県では後の濃尾地震
(一八九一)の被害があまりにも大きかつたためか、安政地震
の被害状況を記録にとどめている郡誌はきわめて少ない。こ
れは安政地震の被害は、濃尾地震によるそれよりも比較的小
さかつたことを意味するものともとれる。養老郡誌は、安政
地震の次のような記録を採録している数少ない例外のひとつ
である。
〈嘉永七年六月十四日の地震(一八五四A)
十四日夜八ツ時大地震があり、高田酒屋八十郎方大蔵一ケ
所崩れ、その他土蔵の破損もあつた。美濃国のうち岐阜付近
など山手では被害が軽微であつた。八月ころまでは毎日三~
四回ないし五~六回の余震がつづいた。
〈嘉永七年十一月十四日の地震(一八五四C)
四日朝五ツ時に大地震があり、大地に亀裂を生じ、横屋で
五〇軒ほど倒壊し、上之郷でも多くの家屋が倒壊した。その
他、栗笠村二一軒、舟付村一七軒、江月村三軒、高淵村三
軒、島江村七軒の倒壊家屋があつた。
〈嘉永七年十一月五日の地震(一八五四D)
五日七ツすぎにまた大地震があつたが、前日の地震ほどは
烈しくなかつた。しかし、前日同様の鳴動がつづき、人々は
恐怖におののいた。余震は翌年までつづいた。
上記の被害記録のある村々は、現在の養老町の南部の低湿
地を占める。クリーク網が発達し、濃尾平野の中でも地盤の
もつとも悪いところであり、後述の東南海地震(一九四四)
のときにも比較的大きな被害を出した地域である。また、濃
尾地震(一八九一)では、家屋の八〇%以上が被害を受けた
地域である。
(3) 被害の特徴
以上の限られた記録からみても、東海道沖に発震した安政
地震(一八五四C)では、濃尾平野西部の地盤の軟弱な地域
に大きな被害をもたらしたことが類推できる。被害のあらわ
れ方は、東南海地震(一九四四)のときと同じタイプである
が、被害の程度はこの地震によるものの方がはるかに大き
い。それは、安政地震の方が規模が大きく、かつ震央が近か
つたことによるものと思われる。家屋倒壊などの被害が、東
濃の山北部にも生じていることは注目に値する。