[未校訂]長野県下の被害状況
県下では飯田・諏訪・松本・松代での被害が大きかつた。又
県外で起きた過去の地震中もつとも影響が大きかつた地震で
もある。
各地の被害状況
飯田 破損家屋(潰家含む)五八九戸 死者三四名
諏訪 潰家六七戸 半潰家八九戸
松本 潰家五六戸 半潰家七六戸 死者五名 焼失家九
一戸
松代 住家潰一五二戸 非住家一九二戸 住家半潰大破
五七六戸 非住家半潰大破四五五戸
上田 潰家約三三戸
馬籠 土蔵・酒蔵等の壁いたむ
赤穂村 町家の土蔵落ちる
伊那郡 地割、水の噴出、山崩れ、破損あり
高遠 城内住居破損数カ所、櫓傾き、壁・門・侍屋敷・
長屋等破損多数
このほか恵那山大抜け、蓼科山で大石崩れ、甲州八ツ岳(山
梨県境付近か)で岩崩れ、松代でも多くの山崩れが発生、上
越道村(現信州新町)では抜覆(地すべりか)のため七間二
尺×四間半の家屋が押潰された。
(長野県における被害地震の記録)
飯田地方の被害
この地震は十一月四日の午中刻にゆれはじめ、連続的にやつ
て来たので家に起臥することが出来ないで、竹藪のあるもの
はその中に入り十日余りもこんな状態が続いたと云うが、こ
の時の被害は飯田町だけでも破損家屋が五八九軒もあつたの
で、飯田城主は救済のため飯田町に金三百両を下附された。
(飯田世代記)
なおこの時愛宕の稲荷社が谷底へ落ちたことを知久町三丁目
の旧家古惣こと松下惣四郎翁は日記に次のように書いてい
る。
安政元年甲寅十一月四日存じの外の大地震仕り、稲荷社みぢ
んに破損被成候につき氏子合普請仕候事為取替申一札之事
一去る安政元寅年十一月大地震に付稲荷社、地欠壊本社及大
破、其上地所手狭に相成再建相成がたく、依之拙寺持来
候、地所稲荷山地続にて西の方に三百六拾坪のところ、西
は蓮池限り、北は道限り、東南これは、はざ場限り、売渡
可申候
安政三年辰九月 地蔵寺
(伊那谷の災害と凶作)
(午中刻)大地震、破損五八九軒、金参百両飯田町へ下附屋外
起居十五日頃迄
池田町綿屋新三郎、嫁と子供、大旗竿落ちかゝり即死、松二
の中屋兼吉、泥酔して前後も不知寝ね居だりしに家潰したれ
ども幸助かる。愛宕稲荷社鶏冠山より谷へ墜落す
(郷土年表 今井源四郎編より)
高森町大島山大洞隆氏が所有している「繭貫目諸作物覚」に
は次のように記されている。
当年十一月四日、大地震ゆり申候、大蔵様大いに損し申候、
薬師様にて石燈籠、五重の塔、皆たおれ損し申候、宝永四年
十月十四日ニ、大地震ゆり申候、其後ニハ当年後、地震ゆり
候事之無く候、月を越し候て茂やみ申さず、同十二月十一日
ニ又候、大きにゆり申候其間日々少々宛ゆり申候、当年地震
ハ諸国大きにゆり申候、甲州・遠州・豆州・相州・三州・摂
州・勢州などが別にて茂、大ゆりニ御座候、当国ハかろし松
本が大きにゆり申候、当年改元あり、安政元年と成
安政二乙卯年
去、嘉永七、十一月四日より地震ゆりつゞき、当年になりて
茂、度々ゆり申候、二月朔日に又候、大きにゆり申候、夫よ
り三月ニ至、少々やみ申候夫迄ハ四、五日間を置てハゆり申
候、前代見聞之事ニ御座候、先、宝永年中以上大きに、ゆり
候、夫より以来の大へんなり
嘉永七甲寅歳
繭貫目諸作物覚
文献所持者(高森町大島山 大洞 隆)
解読者(上郷町飯沼 日下部新一・飯田市下
久堅 平沢里子)
※印、四日が正しい字と推定する。